ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

ぬきたしに見るニュータイプ論

 富野由悠季がSM作家であるという事は周知の事実だと思う。かつて氏はニュータイプという悟りを人類が辿り着く境地だと提唱した。それは建前や虚飾を取り払った相互理解。五かいなく分かり合うことができれば人は一つになれる。しかしその、理想は時代が進むにつれて人の手には余る悟りであることがわかってくる。分かり合う為の力は戦いの道具として利用され、精神感応によって起こる対立やどうしようもなく邪悪な人間。わかり合っても殺し合わなければならない立場。理解したからこそ倒さなければならないという相手。だが、富野由悠季ほどの男が人間の悪意という可能性を考えていなかったわけではない。分かり合えない相手。性根が邪悪な人間。個人がどうあがいても変えられない時代という大きな流れ。それらを認めたうえでニュータイプに至る道とはなんなのか思索に思索を重ねてきた。その思考実験の先にはニュータイプ神話の崩壊という結果が待っていたものの、肉体の繋がりや生の感情と言ったものの再考に至り、人は悟りに至らぬままそれでも変わり生きていくことができるという境地に今はいる。

 さて、ここまで富野由悠季論を語ったけれどもぬきたし関係ないじゃん。と突っ込まれるかもしれない。しかし、この18歳以上向けのPCゲーム「抜きゲーみたいな島に住んでるわたしはどうすりゃいいですか?」にはニュータイプという悟りへのアンチテーゼを含んでいると私は思ったのだ。

 まずはぬきたしについて軽く説明しよう。本作はドスケベ条例という不特定多数との性行為を奨励する条例に支配された島、青藍島において条例に反する思想を持つ主人公達が性行為から逃げ条例に立ち向かうという物語だ。表面的な部分では明るいギャグに覆われているがこの島は一つのディストピアである。少数派を切り捨て弾圧する管理国家である。主人公の橘淳之介はかつて島の価値観にそぐわない為に迫害され、それ故に大切な人を傷つけてしまった過去を持つ。また、淳之介の妹は同性愛者でありヘテロ以外の性愛を認めず強要する条例にその尊厳を侵されている立場である。その一方で島の住人はセックスで繋がり強い連帯感を持ち島の価値観に迎合する限りは温かく受け入れる。また、条例のない本島においてはマイノリティという側面を持った人たちであり、青藍島はマイノリティが自己を開放できる楽園でもある。マイノリティの島のマイノリティ。これは現代でもまだ答えが出ていない問題である。しかし本作においては青藍島の住民とセックスはマジョリティの象徴であり本文でもそう扱う。

 ぬきたしには無印に四人。続編で追加された四人とアペンドのスス子の合計9人のルートがあり、それぞれのテーマがある。その中で今回論じるのは無印の片桐奈々瀬のルートである。このルートは理解を求める相手とは誰かというテーマを持っている。淳之介の持つコンプレックス。それは常軌を逸した巨根であることだ。そしてこの青藍島においてはそのコンプレックスは強力な武器になる。セックスを価値観の根底に置くこの島においては支配者の資格ともいえる。一方でそれは幼少期淳之介がいじめられるようになった原因であり、彼を助けてくれた二人の女性の内一人をその男根で傷付けてしまった罪の象徴でもある。その女性こそが片桐奈々瀬だ。普通からの逸脱をそれが君の個性だと肯定してくれた奈々瀬に淳之介は好意を抱く。しかし子供の狭い価値観や迫害による焦りが悲劇を生む。処女であることを理由にいじめられていた奈々瀬を助ける為に、自分が処女膜を破ってあげなければならない。そう思ったのだ。奈々瀬の悲しむ顔を見て淳之介は正気に戻り、行為は未遂に終わったが、この事件は二人に罪悪感を残し、別離の原因にもなる。そんな苦い思い出を抉るのが冷泉院桐香だ。無印ぬきたしはグランドルート以外のヒロイン三人に対応する敵組織の幹部が存在し、それが冷泉院桐香である。彼女はセックスおよび粘膜接触によって相手を理解する能力を持つ。彼女はその能力によって相手を理解することをよしとし、セックスにおける理解こそが平和につながると信じている。そして、彼女はセックスによって淳之介の本心を暴くのだ。セックスを忌避すること、処女に拘ること、それは建前だ。淳之介が本当に憎むものは条例や非処女ではない。島の人間だ。島の人間に復讐がしたいから条例を潰すという手段を取っているだけで、掲げる理念や目的は後付けの物であると。否定しようにもそう思っていたことは事実であるために、淳之介は反論できない。そんな淳之介に冷泉院は提案する。その男根で皆を支配してしまえばいい。それを使えばこの島でどんな地位にも上り詰めることができる。ルールが不都合ならルールを作る側になればいい。支配者になれば特例を作り守りたい相手も守れる。苦しめたい相手も苦しめることができる。復讐を望み成し遂げられる力があるのなら行使しない理由はない、と。

 淳之介のコンプレックスである男根の肯定。その一点に於いては奈々瀬と桐香は似ていると言えるだろうか。しかし、その本質は決定的に異なる。桐香の提案に乗った場合どうなったかというのは2で変則的に描かれるが何故その提案を淳之介が突っぱねなければいけなかったのか。その理由は無印の時点でしっかりと提示されている。それはその男根を、コンプレックスを晒す相手だ。人は誰かに隠しておきたい部分を持っている。それが淳之介にとっては男根であった。桐香の口車に乗り、男根を使った復讐をしてしまえば、不特定多数にそれを晒すことになってしまう。更に、性行為を手段とする以上望む相手以外とも交わることになる。確かに巨大な男根はこの島において強力な武器になる。行使すれば戦いには勝てる、勝ちすぎてしまうほどに勝ってしまう。しかし、掲げた理想に背く行為だ。桐香はこれを純粋な善意で提案した。それはなぜか。彼女は性交によって淳之介の心の奥底にある思いを知った。本人が見ないぶりをしている過去すら捉え、その願いの正体を暴いた。故に淳之介の望みを叶えてあげようと、心の奥底の願いを成就させんと提案したわけだ。しかし、それこそが、その深い理解こそが大いなる誤解なのだ。人は本質だけでは語れない。人は誰しもペルソナを持つ。心の奥底にある衝動と頭で考える理屈。人に見せない面と人に見せる為の面。人は二面性の生き物なのである。そして、これはよく誤解している者も多いだろうが、内面は外面の上位でもないし衝動や本能が理性や理屈に勝るものでもない。その二つは相互に影響を与えあう関係なのだ。頭で考え続ければそれは本心にもなり得る。それは無印のヒナミルートや2の礼先輩ルートでも描かれていることだ。それらのルートはそんなだまし続けていた自分を認め許すこと、変身をテーマとしている。しかし、奈々瀬ルートのテーマはペルソナの肯定なのである。もっと言えば、見せたくない物を見せたくない相手には見せなくてもいい、という自由なのである。無秩序な解放とその強制は抑圧である。そのテーマは2のラストバトルにも波及していく重要なテーマであり、この作品における自由の象徴とも言える。本作はずっと自由を求め戦う者、抑圧を打ち壊さんとする者の戦いを描いている。奈々瀬ルートもまたその例に漏れないのだ。人はペルソナを使ってコミュニケーションをとる生き物である。誰も彼もを理解し、理解を求める事は暴力である。理解はしても受け入れられない思想や性質は残念ながら存在する。それでも人はそれらを秘めてなあなあでやっていくことができる。それこそ人が人と共存するために必要な優しさなのだ。言葉なしに、分かり合ってしまえばその優しさは無意味になる。だからこそ言おう。そんなもの人間に必要ない。真なる理解は合意の下にあるべきだ。人を選ぶのは当然である。それでもいい。それがいい。奈々瀬ルートの結論はそう結ばれる。奈々瀬は自分の心と貞操を守るためにビッチのペルソナを被った。この島においてビッチは誉め言葉であり憧れの対象である。ビッチであるからこそ順番争いが激しくなかなかセックスができなくても怪しまれず、また迫害されることもない。勿論その演技を続ける事の負担は存在する。しかし奈々瀬はそれを受け入れている。例え誤解されようと、世界の中に何人か自分を正しく理解してくれる人がいればそれでよいと思っている。理解を求めることと理解されないことを受け入れること。それは2のメインテーマにもかかっている。2のボス。ここでは彼女と呼ぶ。彼女は島の外でも島の中でも理解を得られなかった。搾りだした叫びは金儲けの道具として利用されネットの渦に呑み込まれていった。その絶望と憎しみ、そして唯一認めてくれた相手が望まぬ姿を強いられている悲しみ。それが彼女を復讐に駆り立てた。ある意味では淳之介の影と言える。そんな彼女に淳之介が示した答えは世界を変えることではなく自らが変わって見せることだった。世界に自分の存在を知らしめる為に破壊を以て示した彼女を止め、説得し、そして行動を以て彼女は彼女であると、自らが認めて見せたのだ。世界そのものは無理解で残酷であるが、世界のどこかには理解者がいる。故にそれを探すべきだ。もっと広い世界に旅をして、理解し理解するために努力をすべきだと。そこに近道はない。セックスによる理解という近道をしてしまえばペルソナを見落としてしまう。それで半分も理解できない。

 NTはその近道ができてしまったからこそ相手を見誤ってしまうのだ。シャアは純粋だ。子供とも言える。しかしシャアのやり口は悪辣な大人そのものだ。シャアの純粋さを知ってしまえばシャアのやり口の悪辣さが見えなくなってしまう。シャアの純粋さを知らないものはシャアを崇めてしまう。敢えて言おう。母親でもないのにシャアの純粋さなんかに付き合ってやる義理はない。シャアが人に本心を打ち明けないのなら建前としてのシャアとして扱ってやればいいのだ。シャアは相手を理解し、理解するが故にその愚かさに絶望している。しかし、それは暴力的な理解だ。歩み寄る姿勢を見せてもいないのに勝手に相手を見限って心を閉ざす。それなのに理解されたいと思っている。そして世を恨んで攻撃性を振りまいていく災厄だ。シャアの身勝手さに付き合わされてアムロは死んだと言ってもいいだろう。ペルソナを被ったなら隠したものをわかってもらえないからと言って拗ねる資格はない。それは勇気を出して仮面を脱いだものだけの特権だ。そういう意味ではシャアはずっと仮面を被っていた。唯一心を開いたのは仮面の上から見透かしてくれるララァだけだ。そこがシャアを拗らせた元凶かもしれない。近道こそが真のコミュニケーションであり、人類は皆そこに至るべきだと。またララァも誤解してしまった。その純粋な心を見てしまったが故に仮面に気付けない。惚れた女を戦場に連れ出して戦わせるなど正気の男がやることではない。お互いが見えないのではなくお互いしか見えていなかったのだ。

 結局のところ、話し合い、歩み合い、それでもだめならお互いを許容するしかない。ただそれだけの話なのだ。富野由悠季監督の最新作Gのレコンギスタではその答えから更に進めた回答を描いている。主人公ベルリ・ゼナムの旅と恋、そして戦いを通して勢力同士の価値観や主張、置かれている状況、自らの出生などを知って悩み自分の答えを探し求める様を描いたロードムービーである。旅を通して他者を知る。自分を知る。世界を知る。そこまでやってようやく人と対話ができるのだ。理解をして理解を求める。努力をする。理解者を、愛を求めることはかように過酷な戦いなのだ。その結果望む愛が得られなくてもまたそれも愛。失敗と誤解を繰り返し、傷つきあうことでしか人は愛し愛されることができないのだ。一方的に愛したり愛されたり理解したりされたり、そんなことは邪道だ。富野アニメでは愛を押し付けるもの、理解を押し付けるもの、そんな人の姿が描かれ、その末路も描かれてきた。富野由悠季もまたそんな旅路の果てにレコンギスタに辿り着き、そしてまた旅の途中なのだ。

 ぬきたしから大分話がそれてしまったが、とにかく桐香はNT特有の直観的な本能による理解によって起こる誤解をテーマとして背負ったキャラであり、その対比となる奈々瀬が誤解されることを利用し、理解の本質は失敗と思いやりだという事を体現するキャラである。つまりぬきたしはガンダムだったのだ。

 誤解とディスコミュニケーション、価値観の対立。それがコミュニケーションの本質だ。それらの果てにこそ相互理解、愛はある。それらの果てにしかないのだ。そして、本質に囚われてはならない。時には仮面も見つめてその人が他者に何を見せたいと思っているのかを、何に影響を受けて来たのかを、知らなければならない。