ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

勝手に応援記事 プリキュアよ、マジンガーZになれ!

 先日、プリキュアシリーズ新作の「ひろがるスカイ!プリキュア」の新情報が発表された。その中でも耳目を引いたのが初の男性プリキュアと成人プリキュアだ。この場合はレギュラーメンバーで地球基準のことを指す。と言わないとめんどくさいオタクがぐちぐち言ってくる。長く続くシリーズの中での新しい試み。賛否両論が巻き起こるのは当然のことだ。メインターゲットではない私が口を挟むのは烏滸がましいと思うけれども、私は賛成だ。続くという事の本質は変わり続けることである。枠組みの中で新たなものを生み出し、枠を拡張していくことこそがシリーズのあるべき姿だと思っている。

 とまあそこに対する危惧は今のところ薄い。私の見る範囲では概ね好意的だ。プリキュアシリーズも年々新しいものを模索してきたし、今回踏み切ったのも去年のデリシャスパーティプリキュアのクックファイターなどの反響を受けてのことであり、その土台はしっかりと作れていたと言えるだろう。では、何故私はこの記事を書いているのか。それは怒りだ。怒りをこの世界に刻み付ける為だ。私が何に怒っているのか。それはキュアウィングやキュアバタフライにかけられる一部の声だ。それは暴太郎戦隊ドンブラザースのキジブラザー/雉野と比較する声だ。雉野はシリーズ初の男性ピンクという立ち位置ながらそれが霞むほどの個性を持ち、戦隊シリーズの中でも唯一無二の存在となったキャラだ。同作は私も見ているし楽しんでいる。アギトから響鬼で育った私は魂に井上敏樹が刻み込まれているのだ。勿論雉野も好きなキャラだ。しかしながら、プリキュアがそれを見習う必要はないと思っている。この言葉の意味するところが仲間を売ったり私怨のある相手を事故を装って殺害しようとするようなキャラになるなという意味と史上初という要素が霞んで消えるほど濃い味で塗りつぶすなという意味。どちらかと問われれば、どっちもだ。ドンブラザースも雉野も好きだし、男性ピンクを出したことには大きな意味があるとも思っている。だが、もっと別のやり方があったとも思っている。雉野はいいキャラだ。しかし、ある見方では大きな伸びしろを捨ててしまったキャラと言える。それは、男性ピンクという大きな要素をドラマに全く活かさなかったからだ。属性と向き合うということは大きなドラマであり、見る者の感情を想起させる。使いようによっては面白いドラマを作ることもできるし、実際成功例もいっぱいある。それに史上初は一回しかできない。ならその史上初を使わないということはもったいなく思えるのだ。雉野はいわば雉野という濃すぎる味で全て塗りつぶしてしまったキャラとも言えるのだ。おそらくは、戦隊じゃない他の作品にいても雉野の立ち位置は雉野だ。

 だから言おう、雉野は一人だけでいい。確かに、史上初であること以外語られないキャラになってしまってはつまらないだろう。そういう考えから雉野みたいにそこ以外の魅力を持てと言うのはわからなくはないが短絡的だし唾棄すべき安易で愚かな考えだ。ならどうしたらいいか、というより私が何を勝手に望んでいるかと言うと、男性であることや成人であるだけではない魅力を持ちながら、男性のプリキュアでなければ、成人のプリキュアでなければ成り立たない。そういうキャラになって欲しいのだ。ちゃんと属性と向き合いそれを活かした話作りをして欲しい。だから私は雉野になるなと言っているのだ。例えばマジンガーZだ。世界初のスーパーロボットである本作はその初であることを十二分に活かした作品だ。世界に現れたマジンガーZという前代未聞の存在を深掘りし、その強みと弱みをじっくりと描き、描き切った。後世のロボットアニメにまずマジンガーZがやってないことはないかと探させるほどの強い影響力を持った作品となった。なぜそうなったか、それは前例がない故の手探りの試行錯誤によるものだ。先入観がないからこそ、後世でお約束と呼ばれるものに縛られない自由過ぎるドラマ作りができたのだ。もちろんマジンガーZはそれだけにとどまらない魅力を持っている。兜甲児のまっすぐな善性と勇気。ダイナミックな戦闘シーン。大きな力を持つこと、神にも悪魔にもなれるという鮮烈なキャッチコピーと重厚なテーマ。どれも素晴らしい。属性との向き合い方なら、海外ドラマのスーパーガールが参考になるだろう。種族、ジェンダー、人種、生まれ、それらの属性をキャラクターの核としながら魅力的な描き方を実現できている素晴らしい作品だ。主人公のカーラは地球人でないことや女性であることから生まれるドラマ、問題に向き合い、それを乗り越えていくことでその強さ優しさを描き、その属性である意味とそれだけに留まらないキャラクターの魅力の構築に成功している。また、本作初出のキャラクターとしてドリーマー/ニア・ナルというキャラクターがいる。彼女は一族の女性にのみ受け継がれる予知夢の能力を受け継いだトランスジェンダー女性だ。それ故に妹と微妙な関係性にあり、そこが彼女の根幹になっている。ヒーローであること、継承すること、そしてトランスジェンダーとして生きていくことをドラマの中で描き、その属性でなくては成り立たないこととそれだけでない魅力、そして史上初である意味を全て活かしきっている。こんな挑戦がもっと増えればいいと思っている。手探りは今しかできない。史上初であること、成人であること、男性であること、それもキャラの伸びしろで強みなのだ。ちゃんと属性に向き合え! 日和るな! それであることと、それである以上の魅力を持つことは両立する。できる。私はプリキュアを愛しているからこそ、プリキュアにはそれができると信じている。

 

 

 

 

マジンガーZになれ! 

和姦だフォーエバー

※パロディAVのレビューではありません

 先日鑑賞した映画「ブラックパンサーワカンダフォーエバー」は素晴らしい出来だった。ヒーローになるために喪失の哀しみを乗り越える葛藤。悪とも言い切れぬ敵との価値観の相克。歴史問題への深い洞察と切実な願い。そしてそれらを物語として一つに紡ぎ上げる確かな手腕。映画の中で一つの歴史を描き、そして人々を描くという試みを成功させた傑作と言えるだろう。そして、私はそれを見終わった後既視感を覚えた。それがなんなのか、数日たってやっと理解した。それは「抜きゲーみたいな島にする貧乳はどうすりゃいいですか2」だ。馬鹿なことを言っている様に思えるかもしれないが本当なんだ。これからこの二つの作品の類似点を挙げよう。

 

 

・被差別者による復讐をテーマとしていること

・復讐に至る動機とその行動に対して異なる見解を出していること

・現実にある問題や差別を作中で取り上げ、両陣営の問題点を指摘している。

・閉鎖的な環境で起こる逆転した差別構造と被差別者内のマイノリティに対する差別や切り捨てという暗部を描いている。

・兄を失い復讐に囚われる科学の天才でアーマーを作る少女が出てくる。

・復讐者である敵が主人公と鏡合わせの存在でありそうなるかも知れなかった存在として作られている。

・たとえ傷付き裏切られたとしても歩み寄りを止めないことが大切であるとメッセージを発している。

 箇条書きマジックに見えるかもしれないが両作品を知っている人ならば事実だとわかってもらえるだろう。ポリティカルな要素を前面に押し出し、それをエンタメに昇華できている作品は貴重だ。差別との戦いをきっちりと物語として仕上げている両作品が似通うのは必然と言えよう。では次に両作品の違う点を挙げよう。些細な違いを列挙したらキリがないのでいくつか重要な要素に区切って書くことにする。

 まずは媒体の違いだ。映画とゲームという媒体が違う為詰め込める情報の種類も質もかなり違う。特に物語の中で描ける時間のスパンや尺というのが一番大きい。被差別者内での差別が生まれる構造や問題点を描いてはいるが、差別者の心理や生活まで描いているというのはぬきたし独自の点であろう。敵を知り、敵と同じ飯を食う仲間になること。ぬきたし1の礼ルートで描かれたそれを更に進めたのがぬきたし2だ。B世界のSSに潜入しNLNSと戦う主人公と3幹部。その中で彼らはUSD(ユナイテッドステイツオブドスケベ)計画を望むSSメンバー達の真意や願いを知る。気のいい仲間達とスケベで面白可笑しい世界。しかしその裏で差別を受ける人間がいると知っているからには彼らを裏切り阻止しなければならない。いい人間も差別をする。差別された人間も差別をする。そんな残酷な真実を描くためにその差別者を愛らしく描いて見せるいやらしさがぬきたしの真骨頂だ。一方ブラックパンサーは映画の尺で描けることには限りがあり、被差別者の視点に偏っている。それ自体は悪くはない。差別と闘うというメッセージはそれでも十分に描ける。しかしながら、差別する者の心理を描いたぬきたしの方がメッセージを刺せる範囲は広いのではないかと思う。同調圧力に屈して差別に加担してしまった者、マジョリティの論理に阿らない者を批判する者、多数派であることを意識せず無邪気に少数派をいない存在にしてしまう者。そんなありふれた人間に冷や水をかけるような作風が私は好きだ。人種というテーマに区切って映画の尺に落とし込んだブラックパンサーと架空の差別と現実の差別を混ぜたぬきたし。普遍性はぬきたしに分があると言える。

 一方被差別者が憎しみを抱く心理の描写はブラックパンサーに軍配が上がる。映像による説得力と歴史的事実による重み。ネイモアがその歴史を負ったまま何百年も生きてきたことによる憎しみの醸成と王という立場から来る責任感とナショナリズム。あらゆる理由から地上と白人への憎しみが感じられた。ぬきたし2が黒幕を探すという犯人当ての構造を持っている分情報を制限しなくてはならなかったのに対しブラックパンサーはネイモアをもう一人の主人公として最初から最後まで濃密に描写しきっていたことが一番の差だろう。二人の主人公を対比的に並行して描くというのはブラックパンサー二作に共通する作風だ。ティ・チャラとキルモンガー、シュリとネイモア。復讐に燃える者と王でありヒーローであろうとする者。彼らは背負うが故に戦い傷つき、そしてその先に愛と自由を求める。そしてそれを失った時に世界を燃やし尽くす復讐者にもなり得る。様々な状況で二者の行動を対比しその在り方の違いを描いてきた。鏡合わせだからこそ超えてはいけない致命的な一線を越えたかどうかを、ヒーローの条件とはなんなのかを浮き彫りにしているのだ。 

 最後に、喪失についてだ。両作品とも失ったもの、取り返しのつかないものについて語っている。そのアプローチの違いだ。ブラックパンサーは喪失に対して受容というアプローチをとった。現実世界で起こったチャドウィックボーズマンの死。創作内のキャラクターとしてティ・チャラを生かし続けることはできた。しかし、それをしなかった。作中でティ・チャラは死ぬ。それはなんの特別な理由もなく当たり前に訪れる死だ。どんなにありふれていても死は受け入れがたく、誰もが冷静でいられなくなる。それでも喪失を受け入れて生きていくしかない。けれどその人が生きた事実はこの世界に残り続ける。ラストシーン、その顔に風を受けて涙を流すシュリの顔がそれを言葉なしに表現していた。一方、ぬきたしは取り戻す物語だ。もちろん取り返しのつかないこともある。けれど新たに掴めるものもある。過ちを犯した事実を受け止め、それでも向き合っていく。その先にこそ幸せが、祝福が存在する。ブラックパンサーの真摯さ、ぬきたしの優しさ。その二つに優劣などつけられるはずがない。どちらも素晴らしい。

 何故この二作品を比較するのか、それは二つの作品がその内容を補完し合っていると私は考えているからだ。差別と闘う者もまた差別的な感情を持っており、それとも戦わなければいけないというメッセージを持ったブラックパンサーと差別者を知り互いの歩み寄りを肯定するぬきたし。これら二つは互いが描けなかったものを補完しあっているのではないか。完全なる偶然ではあるがその事実が私に新たな知見を齎してくれた。反差別を訴える事、自分の差別感情と戦う事、何が差別感情なのか見極める事、意識しない差別を見つける事どれもが大切な事だ。差別をなくしたいという願いを希望の物語に込めて世に出すこと。創作は楽しむものだが、それ以上の事を求めていくのもまた正しい創作のあり方だ。願いが物語を進化させるのだ。そして、願いは広がり、いつか世界を変える。だからこそ人は、創るのだ。私は祝福する。物語を。この記事にも願いがある。この二作品に多くの人が触れて楽しんで欲しいという事。そして、この二作品にある願いについて考えて欲しいということだ。私これが私の願いだ。もし誰かに届いてくれるなら何より嬉しいことはない。それでは、ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

ぬきたしに見るニュータイプ論

 富野由悠季がSM作家であるという事は周知の事実だと思う。かつて氏はニュータイプという悟りを人類が辿り着く境地だと提唱した。それは建前や虚飾を取り払った相互理解。五かいなく分かり合うことができれば人は一つになれる。しかしその、理想は時代が進むにつれて人の手には余る悟りであることがわかってくる。分かり合う為の力は戦いの道具として利用され、精神感応によって起こる対立やどうしようもなく邪悪な人間。わかり合っても殺し合わなければならない立場。理解したからこそ倒さなければならないという相手。だが、富野由悠季ほどの男が人間の悪意という可能性を考えていなかったわけではない。分かり合えない相手。性根が邪悪な人間。個人がどうあがいても変えられない時代という大きな流れ。それらを認めたうえでニュータイプに至る道とはなんなのか思索に思索を重ねてきた。その思考実験の先にはニュータイプ神話の崩壊という結果が待っていたものの、肉体の繋がりや生の感情と言ったものの再考に至り、人は悟りに至らぬままそれでも変わり生きていくことができるという境地に今はいる。

 さて、ここまで富野由悠季論を語ったけれどもぬきたし関係ないじゃん。と突っ込まれるかもしれない。しかし、この18歳以上向けのPCゲーム「抜きゲーみたいな島に住んでるわたしはどうすりゃいいですか?」にはニュータイプという悟りへのアンチテーゼを含んでいると私は思ったのだ。

 まずはぬきたしについて軽く説明しよう。本作はドスケベ条例という不特定多数との性行為を奨励する条例に支配された島、青藍島において条例に反する思想を持つ主人公達が性行為から逃げ条例に立ち向かうという物語だ。表面的な部分では明るいギャグに覆われているがこの島は一つのディストピアである。少数派を切り捨て弾圧する管理国家である。主人公の橘淳之介はかつて島の価値観にそぐわない為に迫害され、それ故に大切な人を傷つけてしまった過去を持つ。また、淳之介の妹は同性愛者でありヘテロ以外の性愛を認めず強要する条例にその尊厳を侵されている立場である。その一方で島の住人はセックスで繋がり強い連帯感を持ち島の価値観に迎合する限りは温かく受け入れる。また、条例のない本島においてはマイノリティという側面を持った人たちであり、青藍島はマイノリティが自己を開放できる楽園でもある。マイノリティの島のマイノリティ。これは現代でもまだ答えが出ていない問題である。しかし本作においては青藍島の住民とセックスはマジョリティの象徴であり本文でもそう扱う。

 ぬきたしには無印に四人。続編で追加された四人とアペンドのスス子の合計9人のルートがあり、それぞれのテーマがある。その中で今回論じるのは無印の片桐奈々瀬のルートである。このルートは理解を求める相手とは誰かというテーマを持っている。淳之介の持つコンプレックス。それは常軌を逸した巨根であることだ。そしてこの青藍島においてはそのコンプレックスは強力な武器になる。セックスを価値観の根底に置くこの島においては支配者の資格ともいえる。一方でそれは幼少期淳之介がいじめられるようになった原因であり、彼を助けてくれた二人の女性の内一人をその男根で傷付けてしまった罪の象徴でもある。その女性こそが片桐奈々瀬だ。普通からの逸脱をそれが君の個性だと肯定してくれた奈々瀬に淳之介は好意を抱く。しかし子供の狭い価値観や迫害による焦りが悲劇を生む。処女であることを理由にいじめられていた奈々瀬を助ける為に、自分が処女膜を破ってあげなければならない。そう思ったのだ。奈々瀬の悲しむ顔を見て淳之介は正気に戻り、行為は未遂に終わったが、この事件は二人に罪悪感を残し、別離の原因にもなる。そんな苦い思い出を抉るのが冷泉院桐香だ。無印ぬきたしはグランドルート以外のヒロイン三人に対応する敵組織の幹部が存在し、それが冷泉院桐香である。彼女はセックスおよび粘膜接触によって相手を理解する能力を持つ。彼女はその能力によって相手を理解することをよしとし、セックスにおける理解こそが平和につながると信じている。そして、彼女はセックスによって淳之介の本心を暴くのだ。セックスを忌避すること、処女に拘ること、それは建前だ。淳之介が本当に憎むものは条例や非処女ではない。島の人間だ。島の人間に復讐がしたいから条例を潰すという手段を取っているだけで、掲げる理念や目的は後付けの物であると。否定しようにもそう思っていたことは事実であるために、淳之介は反論できない。そんな淳之介に冷泉院は提案する。その男根で皆を支配してしまえばいい。それを使えばこの島でどんな地位にも上り詰めることができる。ルールが不都合ならルールを作る側になればいい。支配者になれば特例を作り守りたい相手も守れる。苦しめたい相手も苦しめることができる。復讐を望み成し遂げられる力があるのなら行使しない理由はない、と。

 淳之介のコンプレックスである男根の肯定。その一点に於いては奈々瀬と桐香は似ていると言えるだろうか。しかし、その本質は決定的に異なる。桐香の提案に乗った場合どうなったかというのは2で変則的に描かれるが何故その提案を淳之介が突っぱねなければいけなかったのか。その理由は無印の時点でしっかりと提示されている。それはその男根を、コンプレックスを晒す相手だ。人は誰かに隠しておきたい部分を持っている。それが淳之介にとっては男根であった。桐香の口車に乗り、男根を使った復讐をしてしまえば、不特定多数にそれを晒すことになってしまう。更に、性行為を手段とする以上望む相手以外とも交わることになる。確かに巨大な男根はこの島において強力な武器になる。行使すれば戦いには勝てる、勝ちすぎてしまうほどに勝ってしまう。しかし、掲げた理想に背く行為だ。桐香はこれを純粋な善意で提案した。それはなぜか。彼女は性交によって淳之介の心の奥底にある思いを知った。本人が見ないぶりをしている過去すら捉え、その願いの正体を暴いた。故に淳之介の望みを叶えてあげようと、心の奥底の願いを成就させんと提案したわけだ。しかし、それこそが、その深い理解こそが大いなる誤解なのだ。人は本質だけでは語れない。人は誰しもペルソナを持つ。心の奥底にある衝動と頭で考える理屈。人に見せない面と人に見せる為の面。人は二面性の生き物なのである。そして、これはよく誤解している者も多いだろうが、内面は外面の上位でもないし衝動や本能が理性や理屈に勝るものでもない。その二つは相互に影響を与えあう関係なのだ。頭で考え続ければそれは本心にもなり得る。それは無印のヒナミルートや2の礼先輩ルートでも描かれていることだ。それらのルートはそんなだまし続けていた自分を認め許すこと、変身をテーマとしている。しかし、奈々瀬ルートのテーマはペルソナの肯定なのである。もっと言えば、見せたくない物を見せたくない相手には見せなくてもいい、という自由なのである。無秩序な解放とその強制は抑圧である。そのテーマは2のラストバトルにも波及していく重要なテーマであり、この作品における自由の象徴とも言える。本作はずっと自由を求め戦う者、抑圧を打ち壊さんとする者の戦いを描いている。奈々瀬ルートもまたその例に漏れないのだ。人はペルソナを使ってコミュニケーションをとる生き物である。誰も彼もを理解し、理解を求める事は暴力である。理解はしても受け入れられない思想や性質は残念ながら存在する。それでも人はそれらを秘めてなあなあでやっていくことができる。それこそ人が人と共存するために必要な優しさなのだ。言葉なしに、分かり合ってしまえばその優しさは無意味になる。だからこそ言おう。そんなもの人間に必要ない。真なる理解は合意の下にあるべきだ。人を選ぶのは当然である。それでもいい。それがいい。奈々瀬ルートの結論はそう結ばれる。奈々瀬は自分の心と貞操を守るためにビッチのペルソナを被った。この島においてビッチは誉め言葉であり憧れの対象である。ビッチであるからこそ順番争いが激しくなかなかセックスができなくても怪しまれず、また迫害されることもない。勿論その演技を続ける事の負担は存在する。しかし奈々瀬はそれを受け入れている。例え誤解されようと、世界の中に何人か自分を正しく理解してくれる人がいればそれでよいと思っている。理解を求めることと理解されないことを受け入れること。それは2のメインテーマにもかかっている。2のボス。ここでは彼女と呼ぶ。彼女は島の外でも島の中でも理解を得られなかった。搾りだした叫びは金儲けの道具として利用されネットの渦に呑み込まれていった。その絶望と憎しみ、そして唯一認めてくれた相手が望まぬ姿を強いられている悲しみ。それが彼女を復讐に駆り立てた。ある意味では淳之介の影と言える。そんな彼女に淳之介が示した答えは世界を変えることではなく自らが変わって見せることだった。世界に自分の存在を知らしめる為に破壊を以て示した彼女を止め、説得し、そして行動を以て彼女は彼女であると、自らが認めて見せたのだ。世界そのものは無理解で残酷であるが、世界のどこかには理解者がいる。故にそれを探すべきだ。もっと広い世界に旅をして、理解し理解するために努力をすべきだと。そこに近道はない。セックスによる理解という近道をしてしまえばペルソナを見落としてしまう。それで半分も理解できない。

 NTはその近道ができてしまったからこそ相手を見誤ってしまうのだ。シャアは純粋だ。子供とも言える。しかしシャアのやり口は悪辣な大人そのものだ。シャアの純粋さを知ってしまえばシャアのやり口の悪辣さが見えなくなってしまう。シャアの純粋さを知らないものはシャアを崇めてしまう。敢えて言おう。母親でもないのにシャアの純粋さなんかに付き合ってやる義理はない。シャアが人に本心を打ち明けないのなら建前としてのシャアとして扱ってやればいいのだ。シャアは相手を理解し、理解するが故にその愚かさに絶望している。しかし、それは暴力的な理解だ。歩み寄る姿勢を見せてもいないのに勝手に相手を見限って心を閉ざす。それなのに理解されたいと思っている。そして世を恨んで攻撃性を振りまいていく災厄だ。シャアの身勝手さに付き合わされてアムロは死んだと言ってもいいだろう。ペルソナを被ったなら隠したものをわかってもらえないからと言って拗ねる資格はない。それは勇気を出して仮面を脱いだものだけの特権だ。そういう意味ではシャアはずっと仮面を被っていた。唯一心を開いたのは仮面の上から見透かしてくれるララァだけだ。そこがシャアを拗らせた元凶かもしれない。近道こそが真のコミュニケーションであり、人類は皆そこに至るべきだと。またララァも誤解してしまった。その純粋な心を見てしまったが故に仮面に気付けない。惚れた女を戦場に連れ出して戦わせるなど正気の男がやることではない。お互いが見えないのではなくお互いしか見えていなかったのだ。

 結局のところ、話し合い、歩み合い、それでもだめならお互いを許容するしかない。ただそれだけの話なのだ。富野由悠季監督の最新作Gのレコンギスタではその答えから更に進めた回答を描いている。主人公ベルリ・ゼナムの旅と恋、そして戦いを通して勢力同士の価値観や主張、置かれている状況、自らの出生などを知って悩み自分の答えを探し求める様を描いたロードムービーである。旅を通して他者を知る。自分を知る。世界を知る。そこまでやってようやく人と対話ができるのだ。理解をして理解を求める。努力をする。理解者を、愛を求めることはかように過酷な戦いなのだ。その結果望む愛が得られなくてもまたそれも愛。失敗と誤解を繰り返し、傷つきあうことでしか人は愛し愛されることができないのだ。一方的に愛したり愛されたり理解したりされたり、そんなことは邪道だ。富野アニメでは愛を押し付けるもの、理解を押し付けるもの、そんな人の姿が描かれ、その末路も描かれてきた。富野由悠季もまたそんな旅路の果てにレコンギスタに辿り着き、そしてまた旅の途中なのだ。

 ぬきたしから大分話がそれてしまったが、とにかく桐香はNT特有の直観的な本能による理解によって起こる誤解をテーマとして背負ったキャラであり、その対比となる奈々瀬が誤解されることを利用し、理解の本質は失敗と思いやりだという事を体現するキャラである。つまりぬきたしはガンダムだったのだ。

 誤解とディスコミュニケーション、価値観の対立。それがコミュニケーションの本質だ。それらの果てにこそ相互理解、愛はある。それらの果てにしかないのだ。そして、本質に囚われてはならない。時には仮面も見つめてその人が他者に何を見せたいと思っているのかを、何に影響を受けて来たのかを、知らなければならない。

最近見た映画感想 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ

 私もこのブログで流行りの映画なんて紹介すると思っていませんでしたよ。本当に。そもそも閃光のハサウェイが劇場公開してヒットするなんて誰が予測できますか。気合の入った宇宙世紀オタクしか喜ばない内容だと思ってたのにいまやハサウェイからガンダムに入りましたなんて人も見るまでに。いやはや、世の中何が起こるか分かりませんね。そんなこんなで始めます。

 

 今回の感想、まず一つは面白かったということ。次にこれでいいの? という気持ちです。だって原液なんですもの。これまでテレビやYouTubeで映像の先出しや逆シャア無料公開をしたり世界観の説明をしたり、映画の冒頭にも簡単な宇宙世紀の歴史を文字で出したりしてはいます、いますけどもこれは閃光のハサウェイなんです。ハッキリ言って一般ウケするような内容ではありませんよ。名作ですよ、名作だと思ってますけど1900円も払って病んだテロリストになった青年が潰れていく話をわざわざ映画館に見に行くなんてどうかしてるじゃないですか。しかもですよ、その点に関してはこの映画、まったくぼかしても変えてもいないんですよ。むしろ正確に、残酷なくらいにわかりやすく描写しているんですよ。冒頭のハイジャックシーンの凄惨さや偽マフティの無軌道さ愚かさは痛いほど伝わり、この作品がどんなものか心に身構えさせます。入念なロケハンによって描かれるダバオの煌びやかな風景とその裏にある傷ついた自然や人の闇は宇宙世紀という時代の歪みを表す何よりも雄弁な材料となるのです。マンハンターによって弾圧される人々の苦しみ、その一方で地球にしがみつく連邦の官僚、大義を叫びながらも市井と乖離するテロリスト達。それぞれの立場の光と闇を描き、一概にだれが正しくて誰が間違っているのかわからない。そんな混沌を一ミリも美化せず劣化させず描いているのです。特に印象に残ったシーンはハサウェイがタクシーの運転手と交わした会話です。ハサウェイが所属するマフティーは地球保護を掲げる環境テロリストです。その最終目的は地球に住む人類を一人残らず宇宙に移住させ、地球を休ませることです。しかしながらそんな主張は今を生きるのに精いっぱいな人間には伝わらない。彼らにとってマフティーとは連邦を叩いてくれる都合のいい存在でしかなく何を言っているかなんて微塵も興味がないのです。だから次はマンハンターを叩いてくれなんて無責任に口走るのです。そんな態度にムッと来たのかハサウェイはマフティーは千年先を考えているなんて反論してしまう。それに運転手は暇なんですねえ、なんて返すんですよ。明後日のこともわからない人間からしたら思想に殉じられる人間は暇人なんです。この残酷なまでの温度差を余すところなく描いているのが本作なのです。マフティーの思想、ハサウェイの思想、それらは異なるものですが、そのどちらにもこの映画は徹底的に冷や水を浴びせてきます。ハサウェイが賢そうに語る言葉はすべて上滑りしていくのです。そして何よりも戦闘シーン。これが一番大事です。なぜならこれはロボットアニメなのですからロボットが戦うシーンのために存在するのですよ。しかしてどうだったか。勿論最高でした。しかもただのアクションではありません。ドラマの乗ったアクションです。一挙一動に満たされる思想と情動が素晴らしく、刺激的でした。特に市街地戦のシーンはMSと人間のサイズ差やその存在の巨大さと逃げ惑う事しかできない絶望感が臨場感たっぷりに表現されていました。ビーム一発で目の前の物全て吹き飛ぶあっけなさ、崩れる柱とその上にいるMSの対比、巻き添えで死んでいく人々、そう、人々の死んでいく様のあっさりとした描写がMSの強大さを表しているのです。ホテルではハサウェイを弄んでいたギギが戦場を前にして怯える様と自分が作り出した戦場を冷静にギギを連れて逃げていくハサウェイの対照的な画作りが最高でした。MS戦とドラマの同時進行は富野監督の得意技ですが、そこに新たな可能性を見出した村瀬監督もまた一流と言えるでしょう。このシーンの凄惨さを強調することでマフティーが起こすテロの実態を観客にこれ以上ないほど理解させ、ハサウェイの持つ矛盾を印象付けるのです。また飽くまでMSは兵器、マシーンであることを徹底しており、その恐ろしさと冷たさで敵味方どちらも暴力をまき散らしていることを意識させます。

 極めつけは本作のラスト。クスィーガンダムの空中受領とペーネロペーとの戦いです。ペーネロペーは正に怪物マシン。特徴的な鳴き声と他のMSを圧倒する機動性、飛行能力、ガンダムという名に恥じない機体です。それに立ち向かうのがハサウェイの乗機クスィーガンダムです。ペーネロペーのコンセプトを進化させた最新鋭の兵器。製造経緯に宇宙世紀の闇がたっぷりと詰まった曰くつきの機体です。高速飛行とパイロット同士の駆け引きを高いレベルで両立しておりとても満足感がありました。実際あんな短い間に複数の武器を使い分けてそこにブラフまで仕込むなんて神業ですよ。何よりすごかったのはレーンとハサウェイのパイロットしてのレベルや性格がアクションの中にきっちりと描かれていたことですね。アクションの中に血が通っているというかとにかくただのアクション以上のアクションです。これは見る価値ありますよ。

 ここまで長々と語ってきましたがまあ言いたいことはすごい面白かったってことですよ。だからこそ、全部は語りません。みなさいよ貴方たち。それでは。

 

 

 

 

 

無軌道散文 火垂るの墓とガンダム

「殴ってなぜ悪いか!」

 

 この前、テレビを見ていた時のことである。最近アニメ特集をよく見る。そういうものは昔からあったけど最近は声優が表に出てきたり制作の裏事情まで紹介していて、昔よりはちゃんと紹介している気がする。しかしながらまだまだ表面的な部分しか触れられていないなと思う。尺の問題や視聴者の理解度もあってそうなるのは仕方のないことだと理解はしているが、やはり物足りない。自分でブログを書いていると人に伝えるということの難しさはわかるし、致命的なネタバレを避けつつ面白いところを抽出する大変さや、偏りのないように解釈することの苦しさが身に染みる。ただ、個人的にどうしても納得できないことが一つある。それは初代ガンダムのブライトさんがアムロを殴るシーンだ。私はあのシーンが甘ったれたアムロを叩きなおすシーンだという人とどうしても分かり合えないと思う。しかし、一般の認識ではそうなっている。よく考えてみて欲しい、15歳の少年を引っ叩いて殺人兵器のコックピットに送り出そうとしているのだ。これのどこが美談だ。アムロを誰が甘ったれと言いきれるものか。結局アムロはこの場では了承し戦うことを受け入れるわけだが、一度限界になってホワイトベースを離れている。この結果からわかるように、この行動は正しいもの、肯定されるべきものと描かれていないのではないか。かと言って、ブライトが悪逆非道の人物とは私は言わない。思わない。むしろ人格はいい方だ。そんな人間に残酷な決断をさせるほど追い込むのが戦場であり、戦争の残酷さという事がこのエピソードの肝なのではないか。私はそう思う。アムロがそこから立ち直れたのはリュウやフラウのフォローあってのことであってブライトの叱咤そのものは必要ではあるが正論ではないと読み取れる。ブライトも19歳である。軍人ではあるがまだ若い。追い込まれて殴る以外の方法なんて思いつかなくても仕方がない。元々、艦長などやる立場ではないのにそうせざるを得なかった。慣れていなくて当然だ。うまくやれなくて当然だ。ただ生きるために責任と決断を迫られる。自分の能力を超えた重荷を背負ってきたのだ。アムロの心労もブライトも比べられるものではないし、互いに他者を思いやる余裕なんてなかった。そんな異常な状況が生んだ悲しいすれ違いがこのシーンなのだ。そうするしかなかった。それは仕方がない。けれど、戦わずに済むなら、殺さずに済むならそれが一番なのだ。やるべきではないことをやらざるを得ない、善人を罪人に変える、それが戦争だ。

 許されるべき甘え、モラトリアムを排除してしまうような、社会は不健全だ。私はそう思う。アムロの甘えは健全な社会において許容されるべきものだった。しかしそれを受け止める親も、大人も、全て戦争が奪っていってしまう。だからアムロは強くならざるを得ない。強く、そして歪にアムロは育っていく。終盤、アムロは周囲と隔絶した精神に変化していく。幼馴染みであるフラウとの関係の変化や敵であるララァの指摘によってそれは表現される。戦場への適応は平和から遠ざかることに他ならない。一線を越えた人間は後戻りできない。体はシャバにいようと心は戦場に取り残される。その後のアムロの人生が戦いの中にあったことからもそれが分かるだろう。

 ところでタイトルにある火垂るの墓はなんなんだと思われることだろう。安心して欲しい。これから話す。今まで話してきたブライトの折檻のシーンは火垂るの墓のメインテーマに通じるというのが私の持論だ。それは、甘えの許されない社会は不健全であり、それを作る戦争は絶対的な悪という事である。高畑監督は火垂るの墓における清太の行動について愚かとしながらも、それを許容できない社会は悲しいと発言している。清太と節子の行動は我がままである。近所迷惑も顧みずオルガンを弾くし、居候の身で贅沢ばかり要求する。元々が海軍将校の家である故に、それが二人にとっての当たり前だからだ。勿論よくはない、よくはないがそれが死ぬほどの理由になんてならない。叱って、時間をかけて躾けることで矯正されるべきではあるが、死ぬほどの咎ではない。けれど社会はそれを許容しないし、叔母の家もそれを受け入れる余裕なんてない。だから二人は社会から離れて、野垂れ死ぬのだ。不寛容な社会を悲劇として描き、それを繰り返さないために戒め、語り継ぐことこそがこの作品の本質だ。ただ悲しいだけではく悲しみの理由こそ視聴者が読み取るべきメッセージなのだ。

 なぜこんな記事を書いたか、それは納得できないと言いたかったただそれだけに過ぎない。今挙げた二つの作品に比べればなんと浅いメッセージだろうか。それはいい!

とにかくこれを読んだ人にとって何か考え直すきっかけになったら幸いである。

最近見た映画感想 グンダラ ライズオブヒーロー

 

「その一瞬に価値があるから」

 

 前置き

 最近、面白い作品ばっか見るようになった。正確には期待値の高い、自分が今まで見てきたような作品に似てる作品ばっか見ている。別にそれは悪いことじゃないと思う。人生は限られている。私はそれについて了承したつもりはないがどうやらそうらしい。その有限の時間の中でつまらない作品に割く時間は徒労と言ってもいいだろう。見なきゃよかったと思う作品はいっぱいある。やらない後悔よりやって後悔なんて言葉は大嫌いな私からしてみればそれらは本当に無駄でしかない。あの時やらなかったらと思わない日はない。でも、その日私は躊躇したことを後悔した。ツタヤで見つけた一作の映画。それが「グンダラ ライズオブヒーロー」だ。手に取りはした。けれど、最新作のシールを見て私は棚に戻した。でももう一回手に取った。裏を見るとヒロインの吹き替えが平山笑美さんだった。少し惹かれたけど、結局棚に戻した。理由は色々ある。まず、400円は高いと思ったからだ。100円なら気軽に借りれたかもしれない。口直しにジャスティスリーグも借りて精神の差し引きをゼロにする誤魔化しも聞いたかもしれない。でも400円のダメージはさすがのジャスティスリーグでも癒せないと思ったからやめた。もう一つは、内容にそこまで期待できなかったからだ。見た目がなんとなくパチモン臭い。最初に思ったのはザボーイズのブラックノワールに似てるなだった。あと、ユニバース構想を狙っているというのも少し躊躇させた。こういう二番煎じはよほどうまくやらないと失敗するものだ。予算をかけたダークユニバースだって失敗したし、DCだってワンダーウーマンまではちょっと危なかったと思う。MCUだってハルクのあたりは怪しかった。ファーストアベンジャーの出来は良かったけど知名度や人気の面だとアイアンマン一強感は初期は拭えなかった。そんなこんなで当てたらでかいが茨の道というのが私のユニバースものへの印象だ。脚本の連携やスケジュール、宣伝もさることながら単品での完成度が一番重要だと思う。次の映画を見せる前に一作で満足させる。それを続けて初めて続きありきの作り方が受け入れられると思うのだ。しかし勘違いしたユニバースものは最初から続きありきで作るから一作の満足度が低くて打ち切られるのだ。ユニバースでなくても無駄に続編を匂わせて死んでいったシリーズはいくつもある。だから無意識に私はこれもそうだと思ってしまった。だから、借りなかった。だが今になって見たくなった。なぜだろう。これを見ないととても後悔する気がした。そしてこれを見たら、俺は「グンダラ ライズオブヒーロー」を見たんだと言える。そう思ったんだ。自分の意思で選択して、この映画を見たんだと言える。そんな気がしたからだ。あと必要なのは理由だった。またツタヤに行って、手に取った。裏を見るとヒロインの吹き替えが平山笑美さんだった。少し惹かれた。だから借りた。理由なんてそれだけで十分だ。理由の選り好みをしてこのチャンスを逃したくなかった。忘れないうちにこれを見て、「グンダラ ライズオブヒーロー」を見た男になる。その気持ちしかなかった。

 それでは紹介しよう。本作はインドネシアのコミックを原作としたブンミラゲットシネマティックユニバース作品の第一作として作られた。雷の力を得て悪と戦うヒーローグンダラの誕生を描いた一作だ。グンダラに変身するのはサンチャカという青年。ストーリーの流れを大雑把に説明すると、まずサンチャカの壮絶な子供時代から始まる。正義感に溢れた両親に育てられたサンチャカだが、両親を失って天涯孤独となり正義と言うものの無力さを知るのだ。父親は労働者の権利を守るためストのリーダーとなるが、仲間に裏切られ、暴動の最中に刺された傷で死んでしまう。慟哭するサンチャカはその時初めて自分の力を発現させる。しかしその反動で気絶してしまう。更に貧しくなったサンチャカは街に出稼ぎに行ったまま母が帰らず、一人で生きていくことになった。それでもまだ正義感の強いサンチャカはチンピラのリンチを止めようとして自分が標的になってしまう。耳を切られ、絶体絶命の危機に陥ったサンチャカを助けたのはウアンだった。子供の身で格闘術を身に着けたウアンは優しくも厳しい兄貴分となった。ウアンは面倒事に関わらないことを信条としていた。「お前が強くなれば俺はお前に関わらずに済む」そう言ってウアンはサンチャカに格闘術を教えるのだった。やがて二人は安全な南東に移り住もうと列車にただ乗りしようとするが、はぐれてしまう。この経験からサンチャカは自分の安全だけを考えて困っている人には関わらないように生きていくようになった。そんなサンチャカだが、運命は彼を放っておかない。話は青年期に移行する。大人になったサンチャカはアパートの大家がチンピラに追われているスリを助けるのを目撃する。「自分のことだけ考える人生に意味はない」その言葉が彼の心に引っかかっていた。やがてサンチャカは隣室の女性ウランが市場を狙うマフィアに抵抗していることを知り、抗争に巻き込まれていく。なんのために戦うのか、何のために生きるのか、サンチャカは己の力と向き合いその戦いは国中を巻き込む大事件と発展する。

 ストーリーは大いなる力と責任を問う王道のヒーローストーリーである。それを彩るのはインドネシアの土と血に塗れた風だ。まず、本作はとにかく治安が悪い。チンピラ集団がそこかしこにいて襲ってくる。武器も木の棒と原始的だ。次に議員はマフィアに賄賂を貰っているか、死んだかの二種類しかいない。本作のメインヴィランのペンコールは複数の議員を従えるマフィアのボスだ。そしてカリスマ性がある。父親が濡れ衣で殺され、人身売買をする劣悪な孤児院に送られたが孤児院の子供を従えて反乱を起こし、そのまま殺し屋集団と仕立て上げて成り上がった壮絶な経歴を持つ。とにかく治安が悪く誰もがすぐ暴力に走る。そんな世界で愛する人を守り、正義を貫くというのは簡単なことではない。バットマンゴッサムシティを彷彿とさせるが、あれは一種のファンタジーとして見ることができる。しかし本作のインドネシアの治安の悪さはリアルなのだ。そして現在進行形でもある。そんな中にヒーローを描く。この意味が分かるだろうか。ジョーカーが差し迫るリアルな破滅を描いた黙示録であるとすれば、本作は破滅を回避しようとする足掻きではないだろうか。サンチャカの戦いが市民や政治家を動かしたように現状が変わって欲しいという希望をこの映画に託しているのではないか。スクリーンの向こうにあるリアルが画面からヒシヒシと伝わるのだ。サンチャカの守りたいもの、平和の意味と重み、そしてなぜ戦うのか、その価値とは、その答えを真摯に描いているのは好感が持てる。

 次にいいと思ったのが演技だ。私が特に目を見張ったのは子役の演技だ。幼少期のサンチャカの眼。そこに世界の残酷さを見据える純粋とそれを壊す運命の濁流を見た。独りぼっちの家で食料を漁り、ズッキーニを貪り食うシーンがある。まさにそれは貪り喰らうのである。生きるためだけの食事、捕食。そして、父を売った労働者の家族から償いの食料が届けられるシーンだ。怒りのあまりそれを蹴とばすも、土の上に散らばったそれを拾って食べるのだ。これ以上なく残酷な世界を表現している。インドネシアで作られたからこその臨場感だ。

そしてなによりも、アクションがいい。シラットというものだろうか。スピード感や攻撃をいなす柔軟さ、無駄のない洗練された動作、現代格闘といった趣で素晴らしい。しかもアクションシーンが多いのだ。これが嬉しい。ヒーローの苦悩も嫌いではないがやはりアクションこそ華だ。アクションが良ければ他の要素を差し置いて好きになれるほどアクションは大事だ。だからこの映画はとても好きになれた。コスチュームを着る前が割合としては多めだ。特にいいと思ったのが幼少期のウアン登場シーンだ。子役だというのにアクションは大人に引けを取らない。そしてそのウアンの動きがサンチャカの中に生きている。ファイトスタイルで絆を表す表現。嫌いではない。かなり好きだ。そして終盤、更に嬉しいことがある。サンチャカとペンコールが本格的に対立する。ペンコールは自らが育てた殺し屋集団を呼び寄せるのだ。彼らはそれぞれの業界に溶け込んでいる。しかしひとたび「父親」からの呼び出しがあれば殺し屋として完全武装で馳せ参じるのだ。バイオリニスト、医者、鍛冶屋、彫刻師、拳法家、女子高生など多種多様だ。快傑ズバットの刺客軍団を彷彿とさせるトンチキさだ。私はこういうのが大好物である。特にお気に入りは鞄で拘束してペンで殺す女子高生殺し屋だ。バイオリンソード使いも捨てがたい。マチェーテキルズとかデスペラードとか好きな人はかなり楽しめると思う。この殺し屋集団だが、ペンコールはそれぞれの分野で一流になれるよう教育を施しているというのも面白い。バイオリンソード使いが死んだ時によく練習しているのを聞いていた思い出を語るのは印象に残る。拳法家はジョンウィックにも出ている人でサンチャカとタイマンするシーンも与えられている目立ちっぷりだ。仮面を後ろに被っていてまるで背中に目がついているような動きをする。終盤まとめて処理されたのはちょっと残念だ。CGではハリウッドに適わない分得意分野で魅せようという気概が感じられて素晴らしい。ただちょっとチンピラを穴に何度も落とすシーンはゲームみたいで笑ってしまった。最終決戦で同じ穴が出てきた時はもしかしてこれがサンチャカのフェイバリットなのかと思った。

 最後はちょっと問題点を語ろう。まずは画面のチープさだ。こればかりは仕方がない。次に、MCUっぽいシーンだ。序盤の独自性を見た後だと若干陳腐に見えてしまう。もっとインドネシアらしさを出して欲しいと私は思う。インドネシアらしさについてあまり分かってないけども。ただスーツを自作するシーンはよかった。最後に若干の不完全燃焼さだ。ラストのピンチに他のヒーローが駆けつけて助けてくれるシーンがあるのだが、そこはサンチャカの力だけで〆て欲しかったなと思う。あとラストが新たな敵が現れるシーンで終わる感じなのでそこがすっきりしないと言える。

 さて、ここまで解説してどう思っただろうか。やはり便乗の域をでない代物か、それとも意欲作と見えるか。それは見ないとわからない。ただ私は見て後悔はしていない。こんな台詞がある。

「俺は戦う。平和は長く続かないものだと教わった」

「なら何故戦う?」

「その一瞬に価値があるから」

 私は選択した。この映画を見ることを。その一瞬に価値があったと私は胸を張って言える。勇気を出す価値があった。だから貴方にも進める。その一瞬にはきっと価値がある。

 

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『ゲッターロボ アーク』キャスト発表記念オンライントークイベント感想

 昨日、オンラインイベントにて多数の情報が発表されました。その内容をここで懇切丁寧に解説しても実際視聴する方が何倍も楽しいと思うので説明記事なんて絶対に書くことはないです。ではここで何を書くのか。それは私個人が感じた見所と私が定義するゲッター及びスーパーロボットの理念と文法です。

 まず一つ、嬉しかったことは本編放送に先駆けて、内田雄馬氏の拓馬の演技が聞けたことです。と言ってもそんなに長いセリフではありません。しかし重要な一言です。それは「ゲッタートマホーク」です。ゲッターロボの代名詞と言える武器、それがゲッタートマホークです。斧を武器とするロボットと言えばゲッターかザクと言っていいでしょう。そして、ザクの、いやガンダムに出てくるパイロットは基本的に武装名を叫びません。未来世紀の奴はガンダムファイターですし刹那はガンダムです。そんなわけでトマホークと叫ぶ現場はほぼゲッターに限られるのではないでしょうか。ゲッターと言えばトマホーク。トマホークと言えばゲッターです。つまりこの一言でゲッター声優としての真価が問われるということです。内田氏のゲッタートマホークはなかなかいいものでした。正直今までの役柄とはかけ離れたものですし、あまり期待していなかったのですがその不安を吹き飛ばしてくれるゲッタートマホークでした。いや、竜馬ではなく拓馬という点を加味するならかなりいいキャスティングでないかと思います。なせなら、拓馬は二世キャラだからです。求められるのは新世代の若さ、初々しさ、そして伸びしろです。羽化する前のさなぎのような、滝を登る鯉のような、未熟さの中に光る将来性、期待を感じさせなければいけないわけで、その点を満たすには内田氏の爽やかな声が合っている。私はそう感じました。また、奇遇なことに内田氏は当初カムイ役でオーディションを受けたそうです。実はOVAシリーズで竜馬役を演じた石川英郎氏も二号機パイロットで受けたと語っていました。不思議な縁がありますね。とにかく動画を見て内田氏のゲッタートマホーク否! ゲェェッターァァァトマホウゥゥゥクを聞いてください。

 次に私が注目したのはキャラデザインに対する言及です。プロデューサーやキャラデザイン担当が念入りに語っていたことは、原作通りにということです。より石川賢先生の漫画に近く、そのまま動かすように、ということでした。私はその思いに感服しました。石川賢先生への深いリスペクトと、現代で石川賢作品は通用する、通用させてみせると言う覚悟が感じ取れます。キャラデザインに関してはOVA三作を通してかなり原作に近付いていったと思っていたのですが、今回はさらにその先を超えて忠実な再現を目指したものとなっています。これですよ、これがゲッターなんですよ。特に興味深かった部分はキャラデザ担当が描くうちに声が聞こえてくる、と言う点でした。今までは最新の絵柄とすり合わせる作業に苦しんでいましたが、今回は一つの答えに向かって突き進むのでその心配がない。そうそう、それでいいよと声が聞こえるという事でした。それはきっと虚無の果てに旅立った石川賢先生の声なのでしょう。私もいつか聞いてみたいものです。

 イベント内で私が一番熱中して聞いたのは石川英郎氏の竜馬に対する思いの件でした。ゲッターチームの三人。それぞれ表すなら二号機は知性担当、三号機はパワー担当、そして一号機、自分が演じる竜馬は勇気担当ということでした。竜馬の勇気、その言葉の意味はロボットアニメの原点に通じる真理があると私は思っています。竜馬の勇気は無謀ではない、確信と信頼の上に立つ勇気である。三人がそれぞれ足りないものを補って、一つの正義を百万パワーにすれば勝てない敵はない。その確信があるからこそ無茶をやれる。そんな勇気なのです。竜馬は勇猛果敢で敵を見れば真っ先に突っ込んでい行くキャラですが、その根底には仲間への信頼と本人なりの勝算があってのことだと。まさに私が思っていたイメージそのままです。私が思うに、ロボットアニメとはロジカルなものなのです。スパロボや後年のパロディや憎っくき中島かずきのせいでスーパーロボットと言えば叫んで精神論で何とかするものという偏見があります。私はそれに異を唱えたい。ロボットアニメはロジカルなのです。なぜそう断言できるのか、それはロボットアニメが科学への憧れから生まれたものだからです。科学とは再現性と法則に則って成立するものです。ロボットが科学への憧れから生まれたものである以上、その存在はロジカルなものであるはずだ。マジンガーZの一話をまず見て欲しい。一話は公式チャンネルで無料配信されているので手軽に見れる。マジンガーZの一話とは、その世界にマジンガーZというロボットが初めて生まれる物語である。設計者である兜十蔵博士が死亡してしまった段階で、その存在の全容を知る者はこの世に誰一人としていない。つまり、マジンガーZに対する謎解き、解明が第一の課題となるのだ。その法則、仕様を解き明かし再現性を証明していく。この過程こそ科学だ。マジンガーを科学していくのだ。一話の段階ではまだまともに歩くことすらままならない。スーパーロボットの誕生は科学と共にあったのだ。そして、それからの物語の構成もまた科学である。マジンガーという新しい科学法則に則って話は作られる。そして、ドクターヘルの作戦もまた理に適ったものであり、それに対応するのも光子力研究所によって練られた理に適った作戦や新武装である。理論と理論の応酬、それが、マジンガーだ。そしてパイロットはその理論を成立させるための力である。低い確率にも賭ける勇気と作戦を成功させる技能、土壇場の機転、メンタルコントロール、多くの要素が混ざり合って勝利を捥ぎ取るのである。その流れを汲んだゲッターもまたロジカルである。まず作戦、勝算ありきなのだ。それが低くても挑まねばならないなら躊躇しない度胸と怖気付かない気迫、それこそが熱血であり勇気だ。東映版も漫画版もまずは相手を分析し、それを基に作戦を立てて、最後は現場にあるものに賭ける。それこそがスーパーロボットなのだ。勇気ではあるが無謀ではない、確信あって命を懸けるという石川英郎氏の竜馬の解釈はこれ以上なく正しい。その深い理解が演技に反映されているからこそ、今現在竜馬と言えば、あの凶悪顔の竜馬と言えば石川英郎氏だと周知されるに至ったのであろう。

 最後に、ファンとしてニヤッとした部分を紹介しよう。それはゲッターロボ以外のダイナミック作品を語る場面である。それぞれの推し作品を語り合うおじさん達が微笑ましかった。石川英郎氏がへんちんポコイダーだが幼少期から大好きだという。確かにあの作品は男児の心を掴んで離さない不朽の名作だ。変則的にだがついにはその役を演じることができるという夢を叶えたのである。いい話だ。キャラデザ担当の本橋氏はキューティーハニーデビルマンなどの名作を挙げながら、憧れからダイナミックプロの門を叩いた思い出を語っていた。石川賢先生の人柄が垣間見える貴重なエピソードだ。プロデューサーの南氏は極道兵器は最高というこの世の唯一絶対の真理を語っていた。流石だ、と感心した。

 とにもかくにも見るに限る。例え見たとしてもまた見た方がいい。私がこの記事で書いた見所に注目したらもっと楽しめるだろう。もう知ってるよと言う方は物事をよく見ている人だ。すごい。尊敬する。

 そんなこんなで今すぐ見よう。さあ見よう。

『ゲッターロボ アーク』キャスト発表記念オンライントークイベント - YouTube