ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

無軌道散文 火垂るの墓とガンダム

「殴ってなぜ悪いか!」

 

 この前、テレビを見ていた時のことである。最近アニメ特集をよく見る。そういうものは昔からあったけど最近は声優が表に出てきたり制作の裏事情まで紹介していて、昔よりはちゃんと紹介している気がする。しかしながらまだまだ表面的な部分しか触れられていないなと思う。尺の問題や視聴者の理解度もあってそうなるのは仕方のないことだと理解はしているが、やはり物足りない。自分でブログを書いていると人に伝えるということの難しさはわかるし、致命的なネタバレを避けつつ面白いところを抽出する大変さや、偏りのないように解釈することの苦しさが身に染みる。ただ、個人的にどうしても納得できないことが一つある。それは初代ガンダムのブライトさんがアムロを殴るシーンだ。私はあのシーンが甘ったれたアムロを叩きなおすシーンだという人とどうしても分かり合えないと思う。しかし、一般の認識ではそうなっている。よく考えてみて欲しい、15歳の少年を引っ叩いて殺人兵器のコックピットに送り出そうとしているのだ。これのどこが美談だ。アムロを誰が甘ったれと言いきれるものか。結局アムロはこの場では了承し戦うことを受け入れるわけだが、一度限界になってホワイトベースを離れている。この結果からわかるように、この行動は正しいもの、肯定されるべきものと描かれていないのではないか。かと言って、ブライトが悪逆非道の人物とは私は言わない。思わない。むしろ人格はいい方だ。そんな人間に残酷な決断をさせるほど追い込むのが戦場であり、戦争の残酷さという事がこのエピソードの肝なのではないか。私はそう思う。アムロがそこから立ち直れたのはリュウやフラウのフォローあってのことであってブライトの叱咤そのものは必要ではあるが正論ではないと読み取れる。ブライトも19歳である。軍人ではあるがまだ若い。追い込まれて殴る以外の方法なんて思いつかなくても仕方がない。元々、艦長などやる立場ではないのにそうせざるを得なかった。慣れていなくて当然だ。うまくやれなくて当然だ。ただ生きるために責任と決断を迫られる。自分の能力を超えた重荷を背負ってきたのだ。アムロの心労もブライトも比べられるものではないし、互いに他者を思いやる余裕なんてなかった。そんな異常な状況が生んだ悲しいすれ違いがこのシーンなのだ。そうするしかなかった。それは仕方がない。けれど、戦わずに済むなら、殺さずに済むならそれが一番なのだ。やるべきではないことをやらざるを得ない、善人を罪人に変える、それが戦争だ。

 許されるべき甘え、モラトリアムを排除してしまうような、社会は不健全だ。私はそう思う。アムロの甘えは健全な社会において許容されるべきものだった。しかしそれを受け止める親も、大人も、全て戦争が奪っていってしまう。だからアムロは強くならざるを得ない。強く、そして歪にアムロは育っていく。終盤、アムロは周囲と隔絶した精神に変化していく。幼馴染みであるフラウとの関係の変化や敵であるララァの指摘によってそれは表現される。戦場への適応は平和から遠ざかることに他ならない。一線を越えた人間は後戻りできない。体はシャバにいようと心は戦場に取り残される。その後のアムロの人生が戦いの中にあったことからもそれが分かるだろう。

 ところでタイトルにある火垂るの墓はなんなんだと思われることだろう。安心して欲しい。これから話す。今まで話してきたブライトの折檻のシーンは火垂るの墓のメインテーマに通じるというのが私の持論だ。それは、甘えの許されない社会は不健全であり、それを作る戦争は絶対的な悪という事である。高畑監督は火垂るの墓における清太の行動について愚かとしながらも、それを許容できない社会は悲しいと発言している。清太と節子の行動は我がままである。近所迷惑も顧みずオルガンを弾くし、居候の身で贅沢ばかり要求する。元々が海軍将校の家である故に、それが二人にとっての当たり前だからだ。勿論よくはない、よくはないがそれが死ぬほどの理由になんてならない。叱って、時間をかけて躾けることで矯正されるべきではあるが、死ぬほどの咎ではない。けれど社会はそれを許容しないし、叔母の家もそれを受け入れる余裕なんてない。だから二人は社会から離れて、野垂れ死ぬのだ。不寛容な社会を悲劇として描き、それを繰り返さないために戒め、語り継ぐことこそがこの作品の本質だ。ただ悲しいだけではく悲しみの理由こそ視聴者が読み取るべきメッセージなのだ。

 なぜこんな記事を書いたか、それは納得できないと言いたかったただそれだけに過ぎない。今挙げた二つの作品に比べればなんと浅いメッセージだろうか。それはいい!

とにかくこれを読んだ人にとって何か考え直すきっかけになったら幸いである。