ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

和姦だフォーエバー

※パロディAVのレビューではありません

 先日鑑賞した映画「ブラックパンサーワカンダフォーエバー」は素晴らしい出来だった。ヒーローになるために喪失の哀しみを乗り越える葛藤。悪とも言い切れぬ敵との価値観の相克。歴史問題への深い洞察と切実な願い。そしてそれらを物語として一つに紡ぎ上げる確かな手腕。映画の中で一つの歴史を描き、そして人々を描くという試みを成功させた傑作と言えるだろう。そして、私はそれを見終わった後既視感を覚えた。それがなんなのか、数日たってやっと理解した。それは「抜きゲーみたいな島にする貧乳はどうすりゃいいですか2」だ。馬鹿なことを言っている様に思えるかもしれないが本当なんだ。これからこの二つの作品の類似点を挙げよう。

 

 

・被差別者による復讐をテーマとしていること

・復讐に至る動機とその行動に対して異なる見解を出していること

・現実にある問題や差別を作中で取り上げ、両陣営の問題点を指摘している。

・閉鎖的な環境で起こる逆転した差別構造と被差別者内のマイノリティに対する差別や切り捨てという暗部を描いている。

・兄を失い復讐に囚われる科学の天才でアーマーを作る少女が出てくる。

・復讐者である敵が主人公と鏡合わせの存在でありそうなるかも知れなかった存在として作られている。

・たとえ傷付き裏切られたとしても歩み寄りを止めないことが大切であるとメッセージを発している。

 箇条書きマジックに見えるかもしれないが両作品を知っている人ならば事実だとわかってもらえるだろう。ポリティカルな要素を前面に押し出し、それをエンタメに昇華できている作品は貴重だ。差別との戦いをきっちりと物語として仕上げている両作品が似通うのは必然と言えよう。では次に両作品の違う点を挙げよう。些細な違いを列挙したらキリがないのでいくつか重要な要素に区切って書くことにする。

 まずは媒体の違いだ。映画とゲームという媒体が違う為詰め込める情報の種類も質もかなり違う。特に物語の中で描ける時間のスパンや尺というのが一番大きい。被差別者内での差別が生まれる構造や問題点を描いてはいるが、差別者の心理や生活まで描いているというのはぬきたし独自の点であろう。敵を知り、敵と同じ飯を食う仲間になること。ぬきたし1の礼ルートで描かれたそれを更に進めたのがぬきたし2だ。B世界のSSに潜入しNLNSと戦う主人公と3幹部。その中で彼らはUSD(ユナイテッドステイツオブドスケベ)計画を望むSSメンバー達の真意や願いを知る。気のいい仲間達とスケベで面白可笑しい世界。しかしその裏で差別を受ける人間がいると知っているからには彼らを裏切り阻止しなければならない。いい人間も差別をする。差別された人間も差別をする。そんな残酷な真実を描くためにその差別者を愛らしく描いて見せるいやらしさがぬきたしの真骨頂だ。一方ブラックパンサーは映画の尺で描けることには限りがあり、被差別者の視点に偏っている。それ自体は悪くはない。差別と闘うというメッセージはそれでも十分に描ける。しかしながら、差別する者の心理を描いたぬきたしの方がメッセージを刺せる範囲は広いのではないかと思う。同調圧力に屈して差別に加担してしまった者、マジョリティの論理に阿らない者を批判する者、多数派であることを意識せず無邪気に少数派をいない存在にしてしまう者。そんなありふれた人間に冷や水をかけるような作風が私は好きだ。人種というテーマに区切って映画の尺に落とし込んだブラックパンサーと架空の差別と現実の差別を混ぜたぬきたし。普遍性はぬきたしに分があると言える。

 一方被差別者が憎しみを抱く心理の描写はブラックパンサーに軍配が上がる。映像による説得力と歴史的事実による重み。ネイモアがその歴史を負ったまま何百年も生きてきたことによる憎しみの醸成と王という立場から来る責任感とナショナリズム。あらゆる理由から地上と白人への憎しみが感じられた。ぬきたし2が黒幕を探すという犯人当ての構造を持っている分情報を制限しなくてはならなかったのに対しブラックパンサーはネイモアをもう一人の主人公として最初から最後まで濃密に描写しきっていたことが一番の差だろう。二人の主人公を対比的に並行して描くというのはブラックパンサー二作に共通する作風だ。ティ・チャラとキルモンガー、シュリとネイモア。復讐に燃える者と王でありヒーローであろうとする者。彼らは背負うが故に戦い傷つき、そしてその先に愛と自由を求める。そしてそれを失った時に世界を燃やし尽くす復讐者にもなり得る。様々な状況で二者の行動を対比しその在り方の違いを描いてきた。鏡合わせだからこそ超えてはいけない致命的な一線を越えたかどうかを、ヒーローの条件とはなんなのかを浮き彫りにしているのだ。 

 最後に、喪失についてだ。両作品とも失ったもの、取り返しのつかないものについて語っている。そのアプローチの違いだ。ブラックパンサーは喪失に対して受容というアプローチをとった。現実世界で起こったチャドウィックボーズマンの死。創作内のキャラクターとしてティ・チャラを生かし続けることはできた。しかし、それをしなかった。作中でティ・チャラは死ぬ。それはなんの特別な理由もなく当たり前に訪れる死だ。どんなにありふれていても死は受け入れがたく、誰もが冷静でいられなくなる。それでも喪失を受け入れて生きていくしかない。けれどその人が生きた事実はこの世界に残り続ける。ラストシーン、その顔に風を受けて涙を流すシュリの顔がそれを言葉なしに表現していた。一方、ぬきたしは取り戻す物語だ。もちろん取り返しのつかないこともある。けれど新たに掴めるものもある。過ちを犯した事実を受け止め、それでも向き合っていく。その先にこそ幸せが、祝福が存在する。ブラックパンサーの真摯さ、ぬきたしの優しさ。その二つに優劣などつけられるはずがない。どちらも素晴らしい。

 何故この二作品を比較するのか、それは二つの作品がその内容を補完し合っていると私は考えているからだ。差別と闘う者もまた差別的な感情を持っており、それとも戦わなければいけないというメッセージを持ったブラックパンサーと差別者を知り互いの歩み寄りを肯定するぬきたし。これら二つは互いが描けなかったものを補完しあっているのではないか。完全なる偶然ではあるがその事実が私に新たな知見を齎してくれた。反差別を訴える事、自分の差別感情と戦う事、何が差別感情なのか見極める事、意識しない差別を見つける事どれもが大切な事だ。差別をなくしたいという願いを希望の物語に込めて世に出すこと。創作は楽しむものだが、それ以上の事を求めていくのもまた正しい創作のあり方だ。願いが物語を進化させるのだ。そして、願いは広がり、いつか世界を変える。だからこそ人は、創るのだ。私は祝福する。物語を。この記事にも願いがある。この二作品に多くの人が触れて楽しんで欲しいという事。そして、この二作品にある願いについて考えて欲しいということだ。私これが私の願いだ。もし誰かに届いてくれるなら何より嬉しいことはない。それでは、ご拝読ありがとうございました。