ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

無軌道散文

 無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。ただの友人ではなく無職の友人が欲しい。

 春。人によっては新生活の始まる季節であり、一年で最も変化の激しい季節である。社会に出るという事は変わっていくことを強いられると同義ではないかと私は思う。人は変化をしていく存在だが、それと同時に変化を憎むものだ。人は古来より変化を憎み、現状維持、あるいは回帰の流れを幾度となく繰り返してきた。神と永遠が切って離せない概念であることや、多くの為政者が永遠、あるいは死後も別天地で栄華か続くことを願い、祈ってきたことからもそれが見て取れる。変化を憎まない人間はいない。私はそう断言できる。誰しもが、この世に一つは変わらない法則を求めている。進学、進級、卒業、就職、転職、退職、別離、死去、この世のあらゆる変化全てを愛せる者などいるものか。人生で一度でも、変わることに恨みを抱かぬものがいるだろうか。ある時は愛せても、ある時は愛せない。変わること、変わってしまうこと、それらは人を傷つける。それこそがこの世で唯一変わらないことなのかもしれない。だからこそ、人は変わることの痛みを誤魔化すために、ポジティブな言葉で飾り立てるのだ。進歩、成長、門出、老成、成仏、祝福。数限りない。変化を好む者、変化を求める者もいる。しかしそれらは例外ではない。むしろ彼ら、彼女らこそ、人一倍変化を憎む者だ。彼らは流動性という檻の中に留まり、停滞という変化が存在する娑婆から逃げている。受け入れる変化とそうでない変化を選り好みして、だだを捏ねているだけに過ぎない。変わっていくというルーチンを受け入れることで、変わっていく痛みから眼を逸らしているのだ。

変化を求める者こそ変化に狭量だ。変わることを信仰すれば、変わらされること、強いられることには反発する。その姿こそ変化を憎み、拒む、人間そのものである。あるいは、強制の結果を自分の意思と誤魔化し、自分を騙すのだ。それは奴隷だ。

 変わって、変わって、最後は灰に変わる。人生なんてそんなものだ。そんな末路が待っていながら人は変わるしかないのだ。だから私は無職の友人が欲しい。社会にでたら人は変わる以外の道がない。ならば社会に出なければいい。けれど働かなくては生きていけない。痛みしかない人生だとしても、人は死という変化よりはマシだと思うものだ。これは遺伝子の呪いだ。肉体の本能が精神を縛っているのだ。それに縛られることも解放されることも、とても苦しい。そして多くの人には抗い続ける方が苦しい。だから人は遺伝子に屈して生きていくのだ。それを非難することはできない。だから、無職の友人が欲しい。変わらないという人類の願い、私の願いを託せる誰かが欲しい。自分はできないけど代わりにやってくれる誰かが欲しい。無職であり続けることは働くこと、変わることよりずっと難しい。人は痛みを恐れるが、人は痛みを求めるからだ。恐れながらもそれなしでは生きていけない。それがないことを想像できない。それが人間だ。痛みがない人生などあっという間に狂ってしまうだろう。そんなことはごめんだ。だから、無職の友人が欲しい。飽くまで友人であって欲しい。近く、遠く、責任を負わなくてもいい存在であって欲しい。身内の無職ほど厄介なものはない。何をするにも邪魔くさく、かと言って放り出すには後味が悪い。たとえ放逐できたとしても、一日、一分でも家にいたことがしこりになる。親戚の集まりで引き合いに出されて嫌な思いをする。だから無職の友人が欲しい。飯を食わせる必要もない距離にいて欲しい。変わっていくと、人は自分を思い出せなくなって、自分を忘れてしまう。しかし無職の友人は、自分が忘れた自分を覚えている。進みたくない時に足を引っ張り、休ませてくれる。進んでいる時は振り返ると同じ場所にいて、自分がどれだけ進んだか、どれだけ進まされてしまったかがわかる。そんな存在だ。無職の友人が欲しい。実家ではこの役割を果たすことはできない。実家は帰ることができても、帰るたびに同じではないからだ。なぜなら、自分自身が変わるからである。家という集団は自分自身を含めて完成する。故に、自分が変われば家の在り方も変わる。あの頃の家には二度と帰れないのだ。だから、無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。変わる前の自己を保存しておける存在が、変わらない願いを託せる存在が。変わることのない法則が私は欲しい。