ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

ゲッターロボアーク放送前のあれこれ 向野在麿くん応援記事

最近は嬉しいことが続いているような気がします。特にゲッターロボアークの新情報。pvやキャストも発表されました。隼人がOVAシリーズの内田直哉さんだったのも嬉しいですが、ゲッターチームの三人が公開されたことも重要です。拓馬役の内田雄馬さんは今を時めくイケメン声優ですね。公式がちゃんと女性人気も取りに来ているという気概が感じられて期待が高まります。獏役の寸石和弘さんは主に吹き替え方面でお仕事をされている方のようです。ウォーキングデッドやアドベンチャータイムなど、私でも知っているくらいの有名作にも出演されてます。そして、カムイ役の向野在麿さん、彼は何と初メインらしいです。年齢も19歳。年下です。なぜだか少し怖いです。少し前から特撮ヒーローをやる俳優が自分より若くなっていくことにどうしようもない焦りを感じています。濱田龍臣くんなんかつい最近お酒飲めるようになったんですよ。ベリ銀や怪物くんの頃から知っている身からするとこれはとてつもないことですよ。そんな齢なのに私よりずっとウルトラマン他特撮への造詣が深く演技の実力もあるときましたら嫉妬のしようもありません。まあそれは置いといて、いま大事なのは向野くんです。初メインでゲッター、しかもアークの裏主人公とも言うべきカムイです。人と恐竜、どちらでもありどちらでもない出自と孤独、母への愛。宿命と戦いの狭間で揺れる心、敵である拓馬との友情を築きながらも戦う悲哀。かなり難しい役どころだと思います。しかしそれ故に魅力的なキャラです。私が特に好きなシーンは出征式にて拓馬が物陰にいたカムイの母親を引っ張ってカムイと手を繋がせるシーンです。母を亡くした拓馬だからこそカムイの哀しみや愛の深さを想い、優しさを抱くことができる。そしてそこからカムイは拓馬に恩義を感じ、信頼するようになるのです。単体でもシリーズ屈指の名シーンですが、その後、未来の世界で他種族を蹂躙するゲッター艦隊や人類のハチュウ人類に対する蔑視を目の当たりにし、自分は人類の中で生きることができないと衝撃を受ける展開の振りとして効果的に機能するのです。號以降のゲッターサーガにはある共通する思想があると思います。それは、人知の及ばない強大な力がこの宇宙には存在し、何者も抗うことができないという思想です。かつてゲッターを滅ぼそうとしたゴールやブライさえゲッターの意思に取り込まれ、その野望を捨て去ってしまう。ゲッターから離れようとした竜馬や號でさえ、その真理の前にゲッターに乗ることを選んでしまう。そうさせるほどのゲッターとはいったい何なのか。これしか道はないと言った武蔵の真意は何なのか。今回のアニメ化でその謎に決着がつくか一ファンとして楽しみです。また脱線してしまいました。とにかくこんな壮大なゲッターサーガの集大成と言えるサーガで作品のテーマを背負うカムイを演じる向野くんの重責は計り知れないという事です。ゲッター風に言うとしたら、「この程度のことで死ぬのなら、今死なせてやった方が親切だ」ですね。彼がハジをかかずやり切れるかとっても楽しみです。ゲッターは戦いの物語です。抗いようもない力、運命とも神とも呼ばれる圧倒的な力。その流れの中で必死に立ち向かう男たちの生きざま。それこそがゲッターです。勝てる勝てないではなく、愛する者のために戦い続けるのがゲッターです。石川賢先生もまたゲッターと戦っていたのだと私は思います。自ら作り出した残酷な世界を打ち壊すことができるか、それとも全て運命の中に呑み込まれてしまうのか、たどり着くべき終焉を探し求めていたのだと私は思います。そして、その戦いはゲッターに関わった全ての人間に受け継がれたのです。でたなゲッタードラゴン。本作の最後に発された言葉です。それは新たなる戦いの始まりの言葉です。拓馬も、カムイも、生きるために、運命に抗って戦い続けているのです。その魂の輝きを通して、向野くんには強くたくましく成長して頂きたい。今から私は向野くんを応援します。これからゲッターに触れる人も、既にゲッターにハマっている人も、ぜひ彼を応援してあげてください。彼もまた運命と戦う戦士なのです。そして、今から応援すれば、ここから有名になったとして、俺たちが育てたと言えなくもないからです。多分言えます。そうでなくても古参面して他のファンにでかい顔できます。それやって嫌われても私は何の責任も負いませんが。とにかく未来の名優を応援しましょう!ゲッターロボアークが成功することを祈って! ガッツ! ガッツ! ゲッターガッツ!

 よい石川賢ライフを。

向野くんのSNS

向野存麿さん (@assassincreed01) / Twitter

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リボルテックヤマグチ No.99 ゲッターアーク

リボルテックヤマグチ No.99 ゲッターアーク

  • 発売日: 2010/12/15
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

便乗映画紹介 仮面ライダー一号

 仮面ライダー45周年記念作品「仮面ライダー一号」特撮史上最も濃厚な藤岡弘、を撮った映画である。かつて石ノ森章太郎先生は言った。本郷猛がどうなったのか、それは藤岡くんのその後の人生を見ればわかる。その言葉を実感させるのがこの映画だ。本作のあらすじをかいつまんで説明すると、本郷猛がその人生と言う戦いの中で得たいくつもの教訓を、その生きざまを通して若者に伝えるために戦う話である。そして、本郷猛は、その戦士として、仮面ライダーとしての定めに向き合い、若き仮面ライダーに新たな道を示す。私は本作が色んな意味で好きだ。一種のカルト映画とも言えるほどの尖りっぷり、そしてそれをなんとか児童向け作品の枠に押しとどめる仮面ライダーゴーストの存在。いくつもの偶然が重なった奇跡的な作品である。そのバランスと危うさが私を魅了して止まない。英雄と命、二つのテーマが本郷猛、あるいは藤岡弘、の伝えたいメッセージと驚異的な親和性を誇っている。そして天空寺タケルのキャラクター性。タケルの英雄に学び成長する特性や、その優しさ、献身の危うさを感じさせる振る舞い。濃縮還元された藤岡弘、という劇薬を薄めるでも反発するでもなく受容し、視聴者の心にクッションを作ってくれる。藤岡弘、の驚異的な存在感には一歩間違えば全てを持って行ってしまう危険性がある。本作が曲がりなりにも客演映画である以上それは良くない。破綻と言ってもいい。しかしそうはならなかった。本郷猛の物語であると同時に本作は天空寺タケルの物語であり仮面ライダーゴーストの一部として成立している。英雄との邂逅を通して成長し、命を知っていく仮面ライダーゴーストのフォーマットを踏襲している。45周年の作品がゴーストであったことは幸運であり、歓迎すべき奇跡だ。

 本作はメタフィクション的な要素を含んだ映画である。冒頭の石ノ森先生の言葉通り、本作が描くのは本郷猛である藤岡弘、の人生である。藤岡弘、は俳優と言う戦場の中で戦ってきた。前代未聞の番組に体当たりで挑戦し、再起不能の大けがを負いながらも立ち上がり、戦場に舞い戻った。単身異国にわたり、真のサムライが何かを追求し世に知らしめようとした。ヒーローとしてのイメージに縛られ、それを受け入れるまでの苦悩。セガサターンで遊ばない不貞の輩を投げ飛ばしたこともあった。数多もの戦場をかけた武士の人生。本郷猛の戦いは藤岡弘、の戦いである。そしてこの映画における本郷猛の描き方は現代社会と藤岡弘、の在り方を示している。現代社会に改造人間である本郷猛は馴染むことができない。現代社会において藤岡弘、の在り方は異物であり遺物である。その事実が本作には描かれている。どこに行っても藤岡弘、は異物であった。その生き方の重みが若者たちには理解できない。高校で生命について語る藤岡弘、とその周囲の反応からそれを読み取ることができる。同じ戦いに身を置く存在であるゴーストのライダー達にもその存在は遠い。それは藤岡弘、という存在がキャストにとって神話の存在とも呼べるほどの壁があることを示している。現代社会を生きる戦士の悲哀、孤独を現代社会を生きる藤岡弘、の特異性によって表現しているのだ。藤岡弘、の精神性、生き様は戦場のそれであり、銃後で生きる人間にはわからない。藤岡弘、とはいったいなんなのか。その答えは出ない。私如きでは一生掛かっても出ないかもしれない。それでも考えなければ、答えを求め続けなければならない。それが生きること、生き抜くことなのだから。

 藤岡弘、は戦い続ける。かつて負った大けがのせいで関節のボルトを固定するために鍛え続けなければいけない。日々が戦いであり、死と隣り合っている。本作もまた、戦い続ける。戦士の物語である。倒れても立ち上がらざるをえない。止まることが許されないのが仮面ライダーだ。風を受けて死から蘇るその姿、まさに英雄である。火葬と復活のシーンは宗教的な美しささえある。その一方で死の安息ですら許されない悲哀も感じさせる。本作の終盤で本郷はおやっさんの忘れ形見である美由と小さな幸せを守ろうとする。しかし、ショッカーによってそれは壊される。運命が本郷に、藤岡弘、に戦い以外の道を許さなかったのだ。自由と平和の為の戦いが続く限り、真の自由と平和はこない。その過酷な現実が重くのしかかる。我々は、自覚していないだけでまだ戦場にいるのだ。

 本作で藤岡弘、が何を伝えたかったのか。それは言葉にすると陳腐になってしまいそうなものだ。「ライダーはいつも君たちのそばにいる。何があっても君たちと一緒だ。生きて生きて生き抜け。ライダーは君たちと共にある。」これが許される最小で最大の単位だろう。これ以上足すのも削るのも野暮だ。

 50周年を迎えた今、改めて本作を見ることに意義があると私は思う。だからこの記事を書いた。仮面ライダーの歴史に刻まれた大きすぎる傷跡、投じられた巨大隕石、見る人に語り掛け、生き様をあり方を考えさせる本作を見ることで仮面ライダーがこの世界に在る意味を問うことができるだろう。

 

 

仮面ライダー1号

仮面ライダー1号

  • 発売日: 2016/08/03
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

 

無軌道散文

 無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。ただの友人ではなく無職の友人が欲しい。

 春。人によっては新生活の始まる季節であり、一年で最も変化の激しい季節である。社会に出るという事は変わっていくことを強いられると同義ではないかと私は思う。人は変化をしていく存在だが、それと同時に変化を憎むものだ。人は古来より変化を憎み、現状維持、あるいは回帰の流れを幾度となく繰り返してきた。神と永遠が切って離せない概念であることや、多くの為政者が永遠、あるいは死後も別天地で栄華か続くことを願い、祈ってきたことからもそれが見て取れる。変化を憎まない人間はいない。私はそう断言できる。誰しもが、この世に一つは変わらない法則を求めている。進学、進級、卒業、就職、転職、退職、別離、死去、この世のあらゆる変化全てを愛せる者などいるものか。人生で一度でも、変わることに恨みを抱かぬものがいるだろうか。ある時は愛せても、ある時は愛せない。変わること、変わってしまうこと、それらは人を傷つける。それこそがこの世で唯一変わらないことなのかもしれない。だからこそ、人は変わることの痛みを誤魔化すために、ポジティブな言葉で飾り立てるのだ。進歩、成長、門出、老成、成仏、祝福。数限りない。変化を好む者、変化を求める者もいる。しかしそれらは例外ではない。むしろ彼ら、彼女らこそ、人一倍変化を憎む者だ。彼らは流動性という檻の中に留まり、停滞という変化が存在する娑婆から逃げている。受け入れる変化とそうでない変化を選り好みして、だだを捏ねているだけに過ぎない。変わっていくというルーチンを受け入れることで、変わっていく痛みから眼を逸らしているのだ。

変化を求める者こそ変化に狭量だ。変わることを信仰すれば、変わらされること、強いられることには反発する。その姿こそ変化を憎み、拒む、人間そのものである。あるいは、強制の結果を自分の意思と誤魔化し、自分を騙すのだ。それは奴隷だ。

 変わって、変わって、最後は灰に変わる。人生なんてそんなものだ。そんな末路が待っていながら人は変わるしかないのだ。だから私は無職の友人が欲しい。社会にでたら人は変わる以外の道がない。ならば社会に出なければいい。けれど働かなくては生きていけない。痛みしかない人生だとしても、人は死という変化よりはマシだと思うものだ。これは遺伝子の呪いだ。肉体の本能が精神を縛っているのだ。それに縛られることも解放されることも、とても苦しい。そして多くの人には抗い続ける方が苦しい。だから人は遺伝子に屈して生きていくのだ。それを非難することはできない。だから、無職の友人が欲しい。変わらないという人類の願い、私の願いを託せる誰かが欲しい。自分はできないけど代わりにやってくれる誰かが欲しい。無職であり続けることは働くこと、変わることよりずっと難しい。人は痛みを恐れるが、人は痛みを求めるからだ。恐れながらもそれなしでは生きていけない。それがないことを想像できない。それが人間だ。痛みがない人生などあっという間に狂ってしまうだろう。そんなことはごめんだ。だから、無職の友人が欲しい。飽くまで友人であって欲しい。近く、遠く、責任を負わなくてもいい存在であって欲しい。身内の無職ほど厄介なものはない。何をするにも邪魔くさく、かと言って放り出すには後味が悪い。たとえ放逐できたとしても、一日、一分でも家にいたことがしこりになる。親戚の集まりで引き合いに出されて嫌な思いをする。だから無職の友人が欲しい。飯を食わせる必要もない距離にいて欲しい。変わっていくと、人は自分を思い出せなくなって、自分を忘れてしまう。しかし無職の友人は、自分が忘れた自分を覚えている。進みたくない時に足を引っ張り、休ませてくれる。進んでいる時は振り返ると同じ場所にいて、自分がどれだけ進んだか、どれだけ進まされてしまったかがわかる。そんな存在だ。無職の友人が欲しい。実家ではこの役割を果たすことはできない。実家は帰ることができても、帰るたびに同じではないからだ。なぜなら、自分自身が変わるからである。家という集団は自分自身を含めて完成する。故に、自分が変われば家の在り方も変わる。あの頃の家には二度と帰れないのだ。だから、無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。無職の友人が欲しい。変わる前の自己を保存しておける存在が、変わらない願いを託せる存在が。変わることのない法則が私は欲しい。

石川賢紹介 第14回 回天 〈KAITEN〉 幕末銃剣士

 

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これは私がまんだらけで買った単行本

 まずはこの画像を見て欲しい。私が掴んでいる部分、具体的に言うと153p~210pまでの部分。この部分がなんだかわかるだろうか。これは単行本化の際に書き下ろされた最終回だ。57pもの加筆である。本作は雑誌休刊による打ち切りで、掲載分だとかなり中途半端に終わってしまっている。まあ加筆の分含めても俺たちの戦いはこれからだエンドなのだが、少なくとも父の仇である甲賀屋新兵衛を倒しているので読者としては区切りをつけて納得ができる。読者への誠意、プロとして物語に決着をつける責任、石川賢が漫画家という肩書に持つ誇りが感じられる。そして実は、私はネット上で関係者を名乗る人物から裏話を教えてもらった。打ち切りを告げた時、こんな感じだったらしい。

 

「すみません、掲載誌廃刊になるんです‥‥」

「OKOK、でもラストはぜんぶ描かせて」

「え?」

「コミックスよろしくね」

打ち切りに慣れている。

 

 それでは本題に入ろう。本作は幕末を舞台とした銃弾と火薬マシマシの超アクション漫画である。動乱の時代。諸外国の魔の手から日本を守るため、攘夷に殉じる志士達がいた。回天はその一人であり、坂本竜馬と手を組んで海兵隊を指揮する快男児である。

回天は刃と拳銃を合体させた銃剣を操り、敵をバッタバッタと殺していく。全身兵器、超ド級の戦士である。藩も侍もない、何にも囚われぬ自由を好み、幕末と言う時代にその銃弾で風穴を開ける。敵は悪徳商人甲賀屋新兵衛。日本にアヘンを蔓延させ、その手に支配しようと企んでいる。そして、回天の生まれ故郷である藩を滅ぼし、父を殺した仇である。今! 全てが爆発する! 破壊の次ぐ破壊。回天はその心の赴くまま限りない闘争に挑むのだった。 

 本作の魅力、それは石川賢一流のアクション描写、コマ割り、暴力と破壊、人間の本能が求める娯楽性そのものだ。特に素晴らしいのが銃剣の描写だ。近接武器と銃の融合というコンセプトの強みを活かし切っている。特撮などで剣と銃を合体させた武器はよく見るが、この銃剣は一味違う。刃が銃口と同じ方向ではなく、柄から伸びている。つまり、逆手持ちの剣と銃の融合なのだ。この意味が分かるだろうか。銃と剣の攻撃方向が違う、四方向の攻撃を可能としているのだ。また、逆手持ちであることは順手持ちよりも更に密着した状態に適している。本作の戦闘は多対一の乱戦が多いため、この形質は有効に働く。両手に持つ銃剣で左右に斬りつけながらの前方への銃撃。銃撃で牽制しつつ迫りくる相手に剣で対応。銃撃が効かない相手に剣を使って装甲の隙間への刺突。剣を突き刺して船の外壁を移動。剣を使った防御。剣を使った障害物の排除からの銃撃。石川賢の才能。いくら語っても余りあるその力の一端。それは戦闘の組み立ての上手さだ。アクションの目的と行動、結果、戦術の方向性。それら全てがわかりやすく表現されている。そして理に適っているように見える。私は格闘の専門家でもないし戦術にも詳しくない。ただそんな私でも理解できるほどに上手く戦っているのだ。特に力がこもっているのは最終回だ。敵の戦艦内での戦闘。閉所、多対一、遮蔽物が多く回天に、そして相棒の銃剣にぴったりの戦場だ。そのポテンシャルの全てを活かした戦闘と戦術。漫画家やアクション監督、アニメーターを志すなら一度は見るべきだ。動くとは、戦うとはこう描くのだと教えてくれる。これが石川賢だ。

 よい石川賢ライフを。

回天<KAITEN>幕末剣銃士 (GSガイズ)

石川賢紹介 番外編 実写極道兵器

「地上最強のチンポ!」

 

 石川賢作品の実写化。10文字足らずで表せる地上最大の蛮勇である。無謀である。正気の沙汰ではない。そんな偉業をこの映画は成し遂げた。山口雄大との共同監督と主演を務めるは坂口拓。日本の俳優の中でもアクションと男臭さに定評のある役者である。しかしそんな彼でも極道兵器を演じることができるのか。石川賢作品を映像化できるのか。私は見る前にそんな不安を抱えていた。けれどそれは杞憂だった。これこそまさに実写化だ。原作への愛、リスペクトある再現。そして媒体の違いを意識したアレンジ。どれも高クオリティであった。個人的な意見だが実写化において一番必要なのは最後の項目だと思っている。自分のペースで見ることができる紙媒体と製作者のペースでしか見れない映像媒体では間の取り方が文法が違う。また表現技法においても両者における映えの基準は異なる。ただ再現するだけでは映像にしただけで映像化したことにはならない。作品の空気を保ちつつ映像に適した表現に作り変えることが映像化なのだ。似せればいいというわけではない。最近の作品だと岸辺露伴は動かないなどがいい例だろうか。あれは原作の雰囲気を見事に再現していた。冒頭の強盗に取材するシーンは初見の視聴者に岸辺露伴を説明する見事なシーンであった。原作にないシーンでありながらその言葉、立ち振る舞いは確実に岸辺露伴から出たものである。ビジュアルもいい。原作のビビッドな彩色や奇妙奇天烈なアクセサリーを実写の世界に合ったシックなものに変えているにも関わらず岸辺露伴である。表面的な要素でなく本質を見極め、それに寄せることがよい実写化である。極道兵器はそれができているのだ。

 大筋は原作の解説記事で語ったので今回は原作との相違点や実写化ならではの長所に絞って解説していこう。

 まず最初にキャスティングだ。私が特に関心したのは将造と倉脇、そして鉄っちゃんだ。坂口拓はパット見だと将造としてはイケメンすぎるように思える。だがその印象は10秒と持たず消し飛んだ。将造の持つ気、その男ぶりというものをその身にまとっている。勢いに溢れたセリフや歩き方や煙草の吸い方、どれもが将造だ。見ていく内にだんだんと将造のイメージが寄っていく。そんな感覚がある。次に鶴見辰吾演じる倉脇だ。本作は倉脇編を軸に二時間の尺に収まるようストーリーを再構成している。つまり本作のボスというわけだ。故に原作よりも存在感を出さなくてはならない。その要求になんなく答えている。将造が陽の狂気ならこっちは陰の狂気だ。変態、陰湿、外道の極みだ。なよこにおシコり報告するシーンの気持ち悪さ、ねっとり感と言ったら原作以上だ。更になよ子を監禁した時には学生時代の写真を部屋中に貼り、なぜかおさげ眼鏡の女装までする。弟と和気藹々に悪事をする様は妙に無邪気で楽しそうであり、話に彩りを加えてくれる。鉄っちゃんと言えば私が原作で最もお気に入りのエピソードであるシャブ極道編のメインヴィランである。将造の親友であり、命を懸けて殺し合う宿敵でもある。悲しい定めと戦いの中に咲く友情の華。暴力こそが二人にとって最高のコミュニケーションであるが故に、その感情全てが伝わるのだ。そんな鉄っちゃん演じる村上淳氏の愛と暴力に狂い落ちていく演技は素晴らしい。本作の鉄っちゃんはシャブだけでなく妹を人質に取られ、倉脇の鉄砲玉に身を落としている。そんな中、唯一の肉親たる妹を亡くした鉄っちゃんは心の平衡を無くし、ただ殺し合うだけのマシーンと化す。そして将造の前に立ちふさがるのだ。更に本作では読み切りの「真・極道兵器」の主人公竜二の要素も融合している。妹の死体をダッチワイフ兵器に改造して将造と戦うシーンは正に石川賢の遺伝子を感じた。そんな落ちていく男を見事に表現しきっている。落ちて落ちて、堕ちて、落ちぶれた先に全てを失って、最後に残ったのは将造との殺し合いだった。死の間際、思い浮かぶのは二人無邪気に笑ったあの日である。二人の友情、その声には妖しい色気さえある。

 次にストーリーだ。本作は倉脇編とシャブ極道編を主軸とした改変をされている。映画一本で完結するようにしたのはスタッフも事情を分かっていたという事か。確かに極道兵器が続編作れるまでに売れるわけがない。だからか、この映画は一本で完結するように作られている。その分、原作要素をこれでもかと詰め込んでいる。深い原作への愛が感じられる改変だ。特によかったのは鉄っちゃんとの友情をフォーカスした点だ。ところどころに回想を挟んで因縁をアピールし、兄弟の印である入れ墨を使ってその仁義と友情を印象付ける。終盤、死んだ鉄っちゃんの入れ墨を腕に宿し、敵討ちの一撃を喰らわせるシーンは涙なしに見られない。もう一つ上げるとするならば倉脇の用意した切り札だ。倉脇は将造の対抗するためあるものを用意するそれは核だ。原作のカイザーを思い出させる。そしてその起爆スイッチこそが「地上最強のチンポ」だ。私はこれを見た時膝を打った。原作にないのに原作から出てきたとしか思えない。石川賢節の何たるかをわかっているではないか。個人的にはこれを思いついただけで百点を献上できる。まさに石川賢だ。そしてあのオチ。言葉でうまく表せないがただ一つ的確な表現があるとしたら「ドワオ!」だ。

 そして極めつけはアクションだ。原作の極道兵器は爆発と破壊、とにかく火器をぶっ放すド派手なアクションが目玉だった。そしてそれを成立させる石川賢の超絶画力が岩鬼将造という男に説得力を与えている。しかし映画では石川賢のような画は作れない。ならどうするか。そう、坂口拓だ。坂口拓をとことん使い、肉弾アクションで魅せる。この割り切り方が功を奏した。原作とは違う実写ならではの魅力だ。本作は純粋にアクション映画としてもクオリティが高い。その分極道兵器の由来たる銃撃や爆発の合成は少し安っぽいが味と言える範囲だろう。殺人ナースをミンチにするシーンはバカバカしさが強調されて石川賢らしさを強く感じられる。とにかく、坂口拓のアクションは素晴らしい。事務所の机での戦い、刀を使った殺陣、納涼花火大会、そして鉄っちゃんとの喧嘩。どれもよかった。動きだけでなく撮り方やギミックも凝っている。殴った壁に開いた穴で破壊力とスピード感を演出したり、影を使った演出でCGを誤魔化しつつ踊りの要素を取り入れてこの夏一番の波のエッセンスを再現したり、様々な工夫がなされている。ダッチワイフバズーカをフィストファックで相殺するシーンは圧巻だ。

 

 実写化とはかくあるべし。そう手放しで言える作品だった。勿論粗がないわけではないがそれを補って余りある魅力にあふれている。もし君が映像で石川賢を感じたいのならうってつけの一作だ。おすすめする。

 よい石川賢ライフを。

 

最近見た映画の話 マジンガーZ INFINITY

 

「人は神でも悪魔でもない!その両方を持ち合わせている!」

 

 かつてマジンガーと共にあった者。今、マジンガーと出会った者。そしてこれからマジンガーと出会う者。全ての人類に送るマジンガーからのメッセージそれこそが本作である。

 私自身の立場としては、今マジンガーと出会った者だと認識している。テレビアニメ版は2話くらいしか見れていないし、殆どの知識がスパロボのそれだ。そんな私の目線での感想なので知識不足についてはご容赦願いたい。

 本作の魅力はマジンガーZと言う希望の肯定であることだ。マジンガーZは今でも展開が続いているとは言え、半世紀近く前の作品である。本作が公開された2018年からさかのぼると、実に46年前だ。若者からすれば今更マジンガーと思われても仕方がない。そんな時代にマジンガーを作る意味はあるのか。作中でも作外でもそんな問いが付きまとっている。それに対する答えが本作なのである。マジンガーは、鉄の城は錆びることはない。時代の中で新たな正義を取り込み、蘇る。そして、マジンガーはいつの時代もマジンガーであり続ける。本作の全てがそれを証明しているのだ。

 マジンガーマジンガーであり続ける理由とはなにか、それは兜甲児である。兜甲児が正義の心を持って乗り込む限りマジンガーマジンガーだ。故に本作のストーリーを簡単に説明すると、兜甲児が何年たってもヒーローであることへの再確認である。

 戦いは終わり、世界は平和になった。甲児とさやかは研究者となり光子力の平和利用を推し進めていた。シローと鉄矢は軍に入り、ジュンはそんな鉄矢と子供を作り母親になろうとしている。ボスはヌケ、ムチャと富士山の麓でラーメン屋を営んでいた。皆大人になって、それぞれの道を進んでいた。穏やかな日常の中でどこか物足りない気持ちを抱えていた甲児と、そんな甲児に距離を感じるさやか。出会いがそんな停滞を打ち破る。富士山地中で発見された超兵器インフィニティとその生体起動デバイスリサ。その存在が新たな戦いを呼び寄せる。突如出現する機械獣、復活するヘル一味。引退した甲児に一体何ができるのか……。

 本作の魅力は語り切れないほどあるが、断腸の思いを持って抜粋しよう。まず一つは、キャラたちが真っ当に大人になっていることだ。変に落ちぶれたりせず、あの頃の面影を残しつつも落ち着いて、自身の進路を決めている。嬉しくもありつつ、若さゆえの勢いを失った彼らには寂しさも感じる。そんな彼らに対し、ヘル一味は変わらない。世界征服の野望を掲げ、覇道を突き進む。しかしその作戦は見事に現代化している。人類の弱点を多様性と見抜いたドクターヘルはインフィニティを掌握した後、和平と殲滅の二択を迫る。ヘルの言葉に各国は論争に論争を重ねてまとまらない。それぞれの正義が一つの悪に対して無力になるのだ。変わってしまった時代に適応するヘルと翻弄される甲児達の対比がマジンガーという存在が現代においてどう映るかのメタファーとなっている。二つ目は設定の現代化だ。冒頭のグレートマジンガーと機械獣の戦闘。最新CGで描かれる高品質なアクションシーンは素晴らしい。各武装の変形や換装もリアルな解釈で矛盾なく演出されていてロボットオタクのツボをつく。そして健在のシャウトである。本作のグレートマジンガーは国連軍所属機の為、武装の使用に逐一承認が必要になる。それを要請することと迅速な発射を両立させるのが音声認識システムだ。スーパーロボットの代名詞たる必殺技のシャウトを現代的な設定で補強する。次にマジンガーZの戦闘。本作のマジンガーは超合金ニューZを使った3Dプリンターで作られている。無限の残弾の内蔵武器に対する現代的解釈だ。そして旧型であるマジンガーZが活躍する理由付けにもなっている。ガワは同じだが中身は最新鋭、まさにこの映画のようだ。このように本作はスーパーロボットのリアル解釈が尽くファンの心に寄り添っているのだ。古いものを古いだけで否定せず今の時代でも成立するように考察し設定する心遣いが原典への深いリスペクトと今の時代でもウケるようにと心血を注ぐスタッフの覚悟が伝わってくる。そして三つ目はとにかくロボットがかっこいいことだ。これは言葉で語るまでもない。見ればわかる。

 マジンガーはどこまでも続いていく。そして兜甲児は永遠のヒーローである。どれだけ時代が変わろうと、根っこの正義は変わらない。そしてそんな正義の心をパイルダーオンする限りマジンガーは無敵のスーパーロボットなのだ。

 

 マジンガーZを知らない人にも本作はおすすめである。むしろ入門として相応しい出来だ。キャラの本質をしっかりつかみ初見にもわかりやすく描写する丁寧さ。平和と英雄の向き合い方と言う普遍的なテーマ。現代的かつ原典の良さを生かしたキャラとメカデザイン。超高速ロボアクション。マジンガーとは何か、マジンガーの魅力をこの90分に詰め込んでいる。名作だ。

マジンガーZ / INFINITY 通常版 [Blu-ray]

石川賢紹介 第十三回 極道兵器

「よくも、よくもこんなスバラシイ身体にしてくれたのう! 最高じゃあ!」

「社会の正しい姿とは、目に見える健全さと、目に見える不健全さとがちゃんと、ここにあることだ! 不健全さがない社会は健全さも目立たない!」

 

 本作には石川賢の魅力が全て詰まっている。破壊! 暴力! 狂気! そして男! 男の生きざまがこれ以上ないほどに描き切られている。男の人生はいつだって戦場。刃握って血の海をかき分け進むものだ! そして、そんな石川賢節の体現者にして破壊と暴力の化身、本作の主人公たる男の名は、その名は岩鬼将造。人呼んで極道兵器!

 岩鬼将造という超ド級の男の生きざま、この世にこれ以上のエンターテインメントがあるだろうか、いやない! あるはずがない!

 岩鬼将造は岩鬼組の跡取りとして生を受けるも、その凶暴性故に極道の世界から追いやられ傭兵として世界を巡り戦っていた。その目的は一つ。殺し合いそのものだ。人が死ぬ時の悲鳴が体中を駆け巡る瞬間が何よりも快感。殺すために生きて殺すために殺す。それこそが岩鬼将造なのだ。そんな将造が日本に戻ってきたきっかけは父の死だった。自分を追放した父にかける情はさほどないが、殺した相手には興味があった。デス・ドロップマフィア。日本を支配せんと企む最凶最悪のマフィアである。強ければ強いほど、外道であるほど、将造の血は湧き踊る。日本を巻き込む将造の喧嘩が始まるのであった!

 岩鬼将造の魅力、それはその存在の強さ。溢れ出るパワーだ。どこまでも進化する兵器、惑星を押しつぶすロボット、神と仏の軍団、ブラックホールのおまんこを持つ忍者、それらを描いてきた作者がこう太鼓判を押すのだ。こいつが一番強い奴と。なぜか、読めばわかる。石川賢が漫画を描く時に一番拘ったのは説得力だ。そんな石川賢が一番強い奴と断言するだけの説得力がある。どんな時でも男ぶりを極めている。故に極道。崩れゆくビルを人の波乗り板に乗ってこの夏一番の波に乗る男が他にいるだろうか。気迫で迫りくる銃弾をはじき返す男を見たことがあるか。そして極めつけはこのシーンだ。倉脇のビルにカチコミをかけ、重傷を負った将造は内閣特務捜査官赤尾虎彦によって無断で全身兵器のサイボーグにされてしまう。意識を取り戻し、自分の身体を見た将造は咽び泣いて歓喜するのであった。これで最強の極道、正真正銘の極道兵器になれると。これだ。これこそが岩鬼将造だ。存在の在り方が違う。男としての格が違うのだ。男ぶりで勝っていれば負ける勝負はない。ビビッて芋引いた方が負けるのは極道の世界の鉄則である。道理も道徳も蹴っ飛ばし、将造は勝ってしまうのだ。

 そんな岩鬼将造の喧嘩は常に派手だ。相手も強烈で狂気に溢れた男ばかりだ。倉脇重助、人間核野郎カイザー、シャブ極道、原子力空母から潜水艦、戦闘ヘリ、それらに勝る男こそ岩鬼将造なのだ。

 特に好きな敵はシャブ極道こと鉄っちゃんだ。その凶暴性によって将造と惹かれ合い、兄弟の契りを交わした男。修羅同士の友情、仁義、そして殺し合う定めの悲しさと殺し合いの情熱。楽しく、そして悲しい戦いは熾烈を極める。シャブによって強化された鉄っちゃんと極道兵器の一騎打ちは満月の夜にその終わりを告げる。月をバックに描かれる決着のシーンは一枚の絵画の様に美しい。戦う事でしか語り合えない怪物たちが唄う仁義の詩、暴力の世界に咲く一輪の花。これこそ石川賢の真骨頂である。

 ああ、スバラシイ。なにがいいかって、この漫画は殺しと破壊がとても楽しく描かれているのだ。残酷で血みどろで汚くて、そんな死と破壊がたまらなく楽しい。人間の原始的な快感を呼び起こし理性を消し飛ばしてしまう面白さがある。一切の言い訳も美化もない純粋な暴力の魅力を余すところなく描き切っている。何も恥じることはない。本来これらは楽しいものなのだ。何も負い目を感じることはない。この暴力の世界こそ人間が感じる最高の愉悦なのだ。勿論健全な愉しみではない。それがいい。冒頭のセリフにある通り、健全と不健全を両方見てこそ人は善と悪を知り、正しくあろうとすることの尊さを知り、社会は正しい姿に向かって進んでいくのだ。この漫画こそ目に見える不健全そのものである。個人的な意見としては義務教育に組み込むべきとすら思っているくらいだ。

 暴力を! 破壊を! 闘争を! 浴びるほどに味わいたいあなたに本作をお薦めする。石川賢の濃縮原液百万% 飲み干す男はいるか!

 よい石川賢ライフを。

 

 

極道兵器 1 (SPコミックス)

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極道兵器 3 (SPコミックス)

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極道兵器 滅殺編 (SPコミックス)

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  • 作者:石川 賢
  • 発売日: 2002/12/19
  • メディア: コミック
 

 

 

極道兵器

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  • メディア: Prime Video
 
極道兵器 [DVD]

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  • 発売日: 2012/01/07
  • メディア: DVD