ある石川賢ファンの雑記

石川賢の漫画を普及し人類のQOLの向上を目指します

石川賢紹介 第六回 神州纐纈城

 

神州纐纈城(下) (講談社漫画文庫)

神州纐纈城(下) (講談社漫画文庫)

 
神州纐纈城(上) (講談社漫画文庫)

神州纐纈城(上) (講談社漫画文庫)

 
神州纐纈城 (1968年)

神州纐纈城 (1968年)

 

 

神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)」

 

「死の連想に脅かされながらお前たちは生きたがる」

「のたうちはいつくばってでもお前たちは生きたがる」

「それは恐ろしさを味わいたいからだ」

「生き地獄を味わいたいからだ」

 本作は国枝史郎の未完の小説をコミカライズしたものだ。そして、石川賢と言えば打ち切りエンドである。つまりこの作品は終わらない。しかし、それ故にこの物語は完成する。永遠に続く地獄の輪廻、それがこの作品が表現するテーマである。そして何よりも、これは決闘である。国枝史郎石川賢の世紀の一戦なのだ。国枝史郎が文字の上に作り出した混沌の世界を石川賢が画にする。その文才の限りを尽くして書かれた地獄に石川賢が挑戦する。男たちの魂の輝き、血のインクで書かれた叙事詩。それがこの作品なのだ。

 地獄。この作品の見どころを一言で表すとするなら地獄だ。比喩ではない。ただ心の辛さやらセンチメンタルやらを表す言葉ではない。正真正銘の地獄なのだ。石川賢がその画力の粋を尽くして描いた地獄。あらゆる方法で、限りなく残忍に、人が死んでいく。人が人を殺す。なぜ殺すのか。なぜか、なぜなど考える間もなく殺す。殺すから殺す。殺されるから殺される。死ぬ、無残に、わらの様に死んでいく。その様を石川賢はとても楽しく描く。何故か見てると興奮してくるのだ。美しく壮大で精巧な地獄を見る。残虐を、残酷を極めた先の美を描いているのだ。

 この物語は血の記憶の物語である。人が忘れている記憶、血に刻まれた地獄界の記憶が物語を作っていく。戦国の世、武田家に使える二人の男。鳥刺の高坂甚太郎と土屋庄三郎、そして富士山三合目に住み人を斬る陶物師。三人は血の記憶に導かれて纐纈城に誘われる。纐纈城とは何か、ある者は極楽と呼び、ある者は地獄と呼ぶ。人界から隔てられたその城は人の血を搾り、布を染めている。内部の牢には連れ去られた者、自ら足を踏み入れた者、多くの人間がいる。毎日くじを引き、当たった者が血を搾られる。しかしそれまでは衣食住全てが保証された快適な生活が送れる。乱世となった人界とどちらが地獄か。血を搾る方法は実に多彩だ。斬る、刺す、剥ぐ、捩じる、潰す、押し込む、吊るす、回す、もぎ取る、ありとあらゆる方法で人の血を搾る。死に際に恐怖を感じるほどよい染料となるからだ。恐怖に呑み込まれ、死んでいった人間の血が鮮やかな紅になり、美しい纐纈布となる。支配するのは仮面の男。近付く者を全て腐らせる病に侵された城主は人の臓腑から作った五臓丸を飲んで生きながらえている。人ならざる家臣たちも纐纈布を纏わなければたちまち腐ってしまうのだ。

 甚太郎は纐纈城を葬るために、庄三郎は纐纈城を手に入れるために、陶物師は人を斬るために城を目指す。何が人を纐纈城に引き寄せるのだ。それは血の記憶だ。人は忘れているのだ。自分が地獄の住人であったことを、現世が地獄であったことを忘れているのだ。男達は前世の因縁故に、纐纈城にて決闘する。それは現世と地獄の戦い。その決着は輪廻の果てに呑みこまれ、そして…。

 わかるだろうか。否、わからないだろう。石川賢は画で勝負したのだ。その画を見て欲しい。故に私は語るとも語ることができないのだ。だから、読んで欲しい。この美しい地獄、壮烈なる地獄を実際に味わってほしいのだ。

 よい石川賢ライフを。